茨城県笠間市では合気道を

今朝NHK朝のニュースで、笠間市にある合気道道場の稽古風景を報道していました。

市町村合併前は岩間町という地名、その道場で稽古していたものですから見入ってしまいました。

映像には顔見知りの方が写って懐かしくその頃を思い出しました。

ジャージ姿で稽古してる方が5、6名ほどいます。

その映像に女性アナンサーが現れて、ジャージ姿の一人にインタビュー、その方学校の先生、どうやら中学校で合気道を教えるために稽古を続けていたようです。

2年ほど前から習いはじめていたようで、後ろ受け身を実演して答えていました。

笠間市は柔道でなく合気道を必修科目として選んだみたい。

アナウンサーがその理由を話していました。

“合気道発祥の地”と。

 その根拠は開祖植芝盛平が戦前昭和15、6年頃にその地に移り住んで合気道を集大成させた地だからです。

 合気道開祖 植芝盛平伝に拠ると、

「・・・・・納屋改造の小屋を「合気道の産屋」と考えた開祖には、三つの大きな構想があった。

第一にはここに合気神社を建立すること。第二には野外道場を設けること。第三には持論の兵農(武農)一如の生活を実践することである。それらの全てを「合気苑」の名のもとに新たな開拓をすることが、岩間における開祖の最後の(当時としては開祖はこの事業の達成をもって最後の人生の仕上げと決めていた)念願であり、その完成まではいかなる事態が生じようともくじけまいと、不屈の闘志をかきたてていた。合気神社の建立は、開祖にとって、いうならば「合気道を武産(たけむす)」し、守護しつづけてくださった四十三神(後述)への御礼であった。その前後、開祖は、在野の古事記研究家の第一人者である言霊学者中西光雲と親しくいききし、氏とのはなしを何よりの楽しみにしていた。開祖のいわゆる「武産合気」なる発想は、古事記によるところきわめて大なるものがあったように思う。・・・・・・・・」。

改めて読んでみると、新宿若松町にあった本部道場で開祖を初めて見た時、記紀の神々のお話をされたことが理解できました。

ただしその時18歳、話は全く理解できませんでした。しかしそのおかげで古事記を勉強するようになったのも事実です。

そんな歴史を刻んだ土地柄、合気道を選択したことも頷けます。

柔道、剣道、相撲などと新聞に書かれていましたが、合気道、少林寺拳法もその対象のようです。

このブログを書いている最中、親友から電話が入り連絡がないので電話したといいつつ近況を伝えてきました。

彼はある高校の合気道部顧問どうやら合宿中、中学校の理科の講師もやっているので、武道は何を選択したと聞くと文京区は柔道をと言っていました。

区で決める様です。

持論なのですが、必修化には合気道が最適と思えるのです。

型稽古で術理を学び、精神、技術の基「和合」です。

ですから無理な競い合いはなく怪我などは起りにくく、受け身技が重視され危険度は少ないからです。

費用的にも体操着で稽古できるから余分にかからないとは親友の言、なるほどと思いました。

文科省が言っている「伝統的な武道の考え方の理解し」の教導は難しいかもしれませんが「体つくり」は出来ます。

 高校は25年度からと彼言っていました。

後輩で静岡で合気道教室を開いているものがいますが、静岡のある女子高校は合気道を選択し指導の依頼を受けたとか。

武道の必修化で、武道精神がいくらかでも理解されることを期待します。

参考文献

2012032410470001.jpg2012032410480000.jpg                                                                          合気道開祖 植芝盛平翁

 

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