現代でいえば「道徳教育」に相当する授業です。
とはいえ、今小学校では授業があるのかな?
修身(しゅうしん)は、「身を修めること」を意味し、第二次世界大戦前の日本の小学校[注釈 1]における科目の一つ。1890年(明治23年)の教育勅語発布から、1945年(昭和20年)の敗戦まで存在した。ウィキペディアより。
戦後生まれの私にとっては科目として授業で受けていないです。
映画「ぶらりぶらぶら物語」の一場面を観て。 – 社長ブログ、(有)フジックス | 埼玉川越 (55fujix.com)
下記の文章は「ぶらりぶらぶら物語」の一場面です。
泥棒役は三木のり平。
「浮浪者が嘆きます。乞食をして「お恵み」と乞うても恵んでくれず、「今の世間は薄情になった、誰も恵んでくれない」と。それを受けて泥棒が言ったセリフが日教組批判。「道徳を教えなくなったからな~、日教組は何してんだー」と言うようなセリフでした。」抜粋。
子供の頃に同じような言葉を聞いたことがあります。
当然ながら当時の大人たちは戦前の「修身」を学んでいるためそう思えたのでしょう。
私等戦後生まれでは受けなかった授業でした。
それは占領政策で廃止したからです。
ブログ「中学生が美人局」で書いているように、小学校の恩師が語ってくれた言葉があります。
「マッカーサーは大和魂を貶めるために修身教育を廃止した」と。
占領政策は日本の弱体化が目的で、日本人の心性の高さを貶めるためでした。
マッカーサーはフィリピンを統治していましたが、日本軍の進撃・強さにオーストラリアへ逃げています。
この時の経験からマッカーサーは日本人の強さ、勇気に驚いたのです。
その一端を彼は「修身」によるものと考えたのです。
母方の祖母から教えたもらった日清戦争の英雄、「木口小平ラッパ兵」の逸話「死んでもラッパを口から離さなかった」などは子供心にすごい人と感じ入った記憶があります。
「修身」には英雄的な軍人さんの「勇気・責任・自己犠牲」など軍務を果たす行為を大切と教えていました。
佐久間艦長、明治43年(1910)4月15日、第六潜水艇が遭難し、乗組員14人が殉職しました。訓練中の事故で、佐久間勉艇長の遺書で知られます。佐久間勉艇長は当時、32歳の海軍大尉。福井県三方郡八村(現在の若狭町)の出身で、海軍兵学校29期。同期に米内光政がいます。ウキペディアより。
この事件は教科書に載り職務に忠実な「任務遂行」として賛美しています。
このような逸話は軍国主義的だと戦後は語り続けられませんでした。
冒頭で紹介した本の一部を記載して道徳教育の意義の再認識をしたいと思います。
なぜならば、昨今親が子を殺し、子が親を殺し、祖母・父が孫を殺し、孫が祖母・父殺し、兄弟で殺しあう事件が多い事、恩師が心配した通りなのです。
原文はひらがな表示ですが、読みやすくするために漢字表記にします。
第一 親子
父さんが遠い所へ行きます。
おたけはお母さんと一緒に見送っています。
第二 お母さん
おたけの弟が、夜中に泣き出しました。
お母さんは抱き上げて、いろいろと慰めています。
第三 お父さん
おたけが可哀そうな子を見ています。
この子にはお父さんがありません。
お父さんの御恩を忘れてはなりません。
第四 自分の事
いちろうがお母さんの言うことを聞いて、本や筆を揃えて学校へ行きます。
自分の事は自分で、せねばなりません。
第五 教師
先生が「遅刻してはなりません。」と、いちろうに言って聞かせました。
お母さんは、「先生の教えをよくおききなさい。」と、言いつけています。
先生の教えをきかんと、良い人にはなれません。
第六 年寄り
おうめといちろうが、年寄りの落とした銭を拾ってやっています。
年寄りを大事にせねば、なりません。
第七 兄弟
いちろうの下駄の鼻緒が切れました。
おうめはその鼻緒をすげています。
兄弟は仲良くせねばなりません。
自我が芽生える前に家族としてしっかりと教えて置くとの考えから日常の当たり前の行動・行為を諭し、国の構成一単位の家族をまとめることが大切だということでしょう。
子供の自主性を重んじる前に、家族の在り方を教える大切を、昨今、報道される事件に感じます。
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