敗戦まで続いた道徳教育「修身」、私等の親達が受けていた教育です。
それが占領政策で廃止されて現在に至っています。
(※修身(しゅうしん)は、「身を修めること」を意味し、第二次世界大戦前の日本の小学校(戦前期は尋常小学校、第二次世界大戦中は国民学校)における科目の一つ。1890年(明治23年)の教育勅語発布から、1945年(昭和20年)の敗戦まで存在した。)ウキペディアより。
クラス会の折、小学校の恩師にその理由を尋ねた時、「マッカーサーが大和魂を貶めるため」と教えてくれました。
恩師は、戦前の教員養成機関「師範学校の出身」、戦後学制が変わった直後で卒業されたと思います。その時、教師をしていた恩師の姉上、共々「心の教育が無いと乱れることは想像できた」と仰っていました。
(師範学校(しはんがっこう)とは、教員を養成する学校であり、戦前の日本および日本の統治地域に存在した、初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関とされ、教員養成機関のひとつ。1872年(明治5年)9月からの約1年間、「師範学校」は東京に設置された日本初の教員養成機関(後の東京高等師範学校。東京教育大学を経た現在の筑波大学の前身)の固有名称であった。これが1873年(明治6年)8月に他の6大学区での官立師範学校設立に伴い「東京師範学校」と改称したため、以降「師範学校」は教員養成機関の総称となった。修了までの年限は高等小学校卒業後4年(後に5年)、中等教育課程(旧制中学校等)修了者は1年(後に2年)。)ウキペディアより。
恩師は「私は昭和っ子」と言っていました。大正15年12月25日まで、26日以降から元号が昭和になり5日間しかなく、実質的には昭和2年が元年になります。
昭和31年に恩師のクラスに入り、恩師が28、9歳の時です。
昨今、若い男女等、授かった子供の養育を放置する事件があったり、また児童虐待など痛ましい事件が頻繁に目立つこの頃、身勝手な行動にそれを観る思いです。
私、戦後の国家体制というか社会制度の在り方に疑問を持つようになって久しいのですが、そのきっかけは子供の頃、ある大人が話してくれた言葉「坊や、マッカーサーは日本人の勇気と団結心を恐れ占領政策で日本を弱くしようとしている」と言うのです。
戦後生まれの私、まだ占領軍が日本を統治していた頃!?だと思います。何故か記憶にとどまり、戦前戦後の違いに関心が向くようになっていました。
戦前では、忠誠心、愛国心、武士道、大和魂など大切な徳目と教えていたのに、戦後になると軍国主義、封建的と憚られる言葉となり、国旗掲揚、国歌斉唱でもめる国になり、このことは他国では異常なことなのに正そうと世論が起こりません。
昭和40年代の頃と記憶していますが、拳闘家藤猛がチャンピョンになった時「大和魂」と叫んだことを思い出します。当時の日本人、ハワイ出身のボクサーから出た言葉なので驚いて話題になったことがありました。
※藤 猛(ふじ たけし、本名:ポール・タケシ・藤井、1940年7月6日 – )は、元WBA・WBC世界スーパーライト級王者。 ハワイ準州ホノルル出身の日系3世。国籍はアメリカ合衆国。 日系3世としてハワイで出生。幼稚園時代にエディ・タウンゼントのジムで毎日のように遊ぶ。ハワイ州のハイスクール卒業。 卒業後、米軍人となった。アメリカ合衆国海兵隊員 …ウキペディアより。
何故廃止されたか?その経緯が次の本に書かれていました。
4年ほど前に買い求めた本です。
「今日、道徳の教科化が大きな議論んとなっています。道徳は戦前、『修身』と言いました。すでに述べて通り、この修身の教科書をアメリカは日本占領が始まる前に分析し終えていました。・・・
注)太文字部の記述に驚きます。私見ですが一島国の日本が連合国軍相手に強さ(フィリピンの戦いで彼は逃げています)を発揮する敢闘精神にマッカーサーは驚きをもっていたと思われ、その解明に日本の教育制度に関心を抱いていたのではと想像します・
(フィリピンの戦い (1941-1942年)(フィリピンのたたかい、Battle of the Philippines)では、1941年から1942年のフィリピンでの戦闘について述べる。1941年12月8日の太平洋戦争勃発とともに日本軍はフィリピンの連合国軍と戦闘を開始[1]、1942年6月9日までに孤立した部隊を除き連合国軍の全部隊が降伏して戦闘は終了した[2]。)
・・・分析を担当したのはアメリカ国務省、シカゴ大学民政要員訓練学校、民政要員集合基地の三つの機関です。
分析の結果、どういう結論が出たかというと、国務省及び民政要員集合基地での報告書の中で、戦前の修身教科書、特に昭和8年改訂の第四期修身科国定教科書の内容に軍国主義的・超国家主義的傾向が観られるため有害であると指摘しています。・・・
※ここで軍国主義の言葉が使われています。
これ以降戦前の体制を軍国主義と呼ぶようになったのでしょう。
・・・この分析で中心的な役割を果たしたのは、ロバート・キングホールという人です。キングホールは日本語をローマ字化しようとしたことでも知られています。・・・
※戦後、フランス語を国語にしようと云った文豪もいましたし、ローマ字化を実行していれば、漢字・ひらがなが読めなくなり歴史を失ってしまったでしょう。韓国は漢字を廃止してしまい漢字の歴史書を今は読めなくなっているそうです。
・・・しかし、この分析では特定の時期だけが問題だと指摘していて、修身科の教育のそのものについては容認の立場を示していました。実際に国務省の報告書では、第四期国定教科書を、大正期の第三期国定教科書に切り替えて使用することを勧告しています。つまり、それ以前の教科書に戻せばいいということで、修身を廃止する必要はないと報告しているのです。
ところが、大部分は無害であると分析されたにもかかわらず、修身科を禁止する強い圧力があり、CIEは見せしめの意味で昭和20年12月31日、”修身・地理・日本歴史の停止指令”を出しています。これが先にあげた四大指令の一つです。・・・」
(※CIE:民間情報教育局 (みんかんじょうほうきょういくきょく、Civil Information and Educational Section)は連合国総司令部 (GHQ/SCAP) 幕僚部の部局の一つ。大衆に連合国軍の望む情報を教え込むことを目的とした部署であり、略称はCIE。第二次大戦終結後、戦勝した連合国軍による日本統治政策として、教育・宗教・芸術などの文化戦略を担当し、戦後の日本国民の意識形成に大きな影響を及ぼした[1]。)ウキペディアより。
クラス会で会った時、またお電話などで戦後教育についてよく尋ねました。
「自由平等の履き違い」、「平等という名の悪平等」、「個人主義を利己主義に勘違い」、「優秀な先生方が追放された」、「敗戦で国がこんなにも変わってしまう」、「日教組は自ら格を貶め、ただのお金欲しさの労働者になり下がった人たち」、など仰っていました。
「教師の矜持」が感じられます。
一教員として戦後の教育の歪みを嘆いておられました。
今になれば、その事がよく理解できます。
私などは黒塗り教科書が思い出されます。
今まで「良し」とされていた記述は「悪」とされ、墨でその部分を消された教科書です。
その時の教育現場の混乱が想像されます。
民政要員集合基地でロッカードとエハレットの修身教科書に掲載されて説諭などの緻密な調査によれば、
徳目として、
●「社会や国家への奉仕」を扱ったものが20、(世のため人の為)
●「家族愛」を扱ったものが18、
●「忍耐」が8、
●「遵法」「忠誠」「健康」「清潔」が5、
●「信頼」「節約」「正直」「勇敢}「独立心」などが67となっています。
八木秀次さんが出版された「尋常小学修身書」の帯に「偽」時代の今こそ学びたい、日本の徳育と記したわけも納得です。
亡くなった叔母は鹿児島師範学校を出て教師をしていました。
「教育勅語」は廃止されましたが、いまでも通用するものと言っていました。
恩師が言ったように「大和魂」は消えました。
嘆いていた通り、心の荒廃が見て取れます。
冒頭に書いた子供の養育放棄・虐待の件、
戦後の教育でアメリカと同様なことが起きているのです。
著者が40年前にアメリカ留学した時の話、「・・・当時「子供が子供を産んでいる」、未婚女性が子供を100万人産んでいるというのです。そして 児童虐待が100万件起こっていると。・・・」
「大和魂」は消えました。
ここで云う「大和魂」、大和心とも言い、日本国民が大切にした「日本精神」、いやあまたこころです。
(これは『やまとこころ』と読むのが普通であるが、『いやあまたこころ』の転化である。それを今様にいうならば最大多数者の共通的善意識ということになる。いあやまた(非常に、多くの人人の)心(真心)である。この『大和心』―――いやあまた人の共感としての真心―――これこそが日本精神文化の華たる『武士道』なのである。)望月稔氏 技法日本傳合気道より。
コメントを残す