訃報を9/1のネットニュースで知りました。
確か昭和3年のお生まれ、82歳です。
如何なさっているか、気にかかっていたのですが、残念でさびしい気持ちにもなります。
私らが子供の頃、相撲人気の全盛時代、栃錦と共に栃若時代を築き数々の名勝負を残し私の記憶に刻まれています。
若乃花、相撲の特徴は小兵ながら「小、よく大を制す」を地のまま体現されていました。
栃錦も同様ですが、なんといっても大技、呼び戻し(仏壇返し)は凄く印象に残っています。
鳴門海、潮錦、房錦などを土俵に叩き付けた業です。
引用元:ネット記事より。
左上手で、上手出し投げのように崩しをかけ、懐に呼び込み右手で掬うようにして相手を裏返しにする技、本当に凄いです。
一度、貴乃花がそれに近い技を使ったことがありますが、決まり手は呼び戻しとはなりませんでした。
今の相撲取りには、もう出ない業だと考えます。
寄り切り、押し出し、はたき込みなどが多くなり、投げ技の決まり手が減っています。四十八手と言われ決まり手が多くあるのですが体現できる力士が育っていません。
それも、今の相撲が面白くない一因でしょう。
大型化、稽古量、質の低下も上げられます。
強靭な足腰を持っていた力士、その足腰の強さは、長男として一家を支えるため沖仲仕をしていた頃に身に付けたと聞いています。
岸壁から船まで板一枚の渡しを重い荷物を運ぶ仕事、板はしなり安定が悪くバランスを崩せば海に落ちてしまう過酷な作業、これが足腰を鍛えるのに役に立ったのです。
バランスを保ちながら、重いもの運ぶこの作業、武術的な足腰を作るに適した動作です。
現役時代、その足腰の良さ、剛腕さを見せています。
タニマチが部屋での稽古中に、四斗樽を持ち上げれば賞金をやるとけしかて、兄弟弟子であった若ノ海、若秩父などが挑戦するのですが、上げられません。
難しさは、入っている日本酒が揺れて上げづらくなるからです。
それを見ていた若乃花が挑戦、一気に差し上げてしまうのです。
この辺りにも、如何に足腰が強靭だったことがうかがえます。
なぜ一家を支えるために働かなければ為らなくなったのかは、自伝にこう記されていました。
「・・・花田家はリンゴ園を手広くやり、その傍ら精米所を経営していた。進取の気性に富んだ宇一郎(父親)は、不況を乗り切るためリンゴの品種の改良に力を入れ、金木の近くの嘉瀬に、家や精米所などを担保に入れ、山を買い、さらに十町歩(約10ヘクタール)ほどのリンゴ園を作った。まさに乗るかそるかの大博打であった。昭和9年4月、勝治は新和小学校に入学した。しかし、勝治は小学校1年生に2学期には転校せざるを得なかった。それはすべて自然がもたらした運命の転機だった。昭和9年9月21日、気圧911.6ミリバール、瞬間風速60メートルの室戸台風が津軽地区を襲ったのである。・・・」
この災害により、破産を余儀なくされ北海道に移り住むのです。
角界入りの切っ掛けは、後に師匠、花籠親方になる大ノ海の友人が、勝治の素質を見込んで宇一郎を口説き角界入りを薦め、あまりの熱心さに根負けしたのは宇一郎でなく、母きゑの方であったと自伝に記されています。
こうして、昭和21年11月4日に行われた新弟子検査に合格するのです。
174㎝、体重75キロ。
四股名は、師匠大ノ海の前名若ノ花。
戦後の入門で最初の横綱となるのです。
テレビでも放映されていましたが、なんといっても印象に残る名勝負は昭和35年、横綱千秋楽全勝同士の対決です。大相撲史上初めてということもあり大いに注目されました。
がっぷり四つ、栃錦、持久戦不利と見て若乃花右下手の手首をつかみ、まわしを切りに行きます。
その瞬間、若乃花、一気に栃錦を寄り立て、寄り切りで決着。
手に汗握る白熱の大相撲、本当に興奮しました。
今はあまり見かけなくなった相撲の取り口です。
栃若時代、どちらかと言えば若乃花が好きでした。けれど栃錦にも魅力を感じていました。
若乃花より年上で、戦前の入門です。
技が多彩で、二枚蹴り、首投げ、が印象にあります。
それにしても、あの頃の力士、個性豊かで、決まり手も多彩、娯楽の少ない時代でテレビ放送開始から大相撲が放送されたのが、人気が出た理由でしょう。
当時は民放も中継していました。
見て居て、楽しい相撲でした。
横綱昇進が昭和33年1月、10回優勝して引退が昭和37年4月30日、二子山部屋を起こしてからも、凄かった。
相撲社会に入り頂点まで登り詰めることができたのは、猛稽古との信念で力士を育てます。
現役時代、彼の稽古経験談に、稽古で疲労し体がきつくなってしまうがそれを我慢していると、疲労感がとれ何番でも稽古ができたと言っていました。
ある意味、ランニングハイと言われるような「ハイ」を経験したのでしょう。
ぶつかり稽古今は30番程度、しかし80番以上こなしたというから稽古量の凄さが伝わってきます。
その信念が、横綱隆の里、二代目若乃花、大関貴ノ花(末弟)、若嶋津、他大勢の幕内力士を輩出します。
確か部屋最初の関取が二子岳です。
一族で見れば、自身が横綱 弟が大関、かつ甥っ子二人が横綱を張っています。
現役時代は横綱を張り、親方になってからは名伯楽と称され、理事長までになった人。
まさに堂々たる人生と言えるでしょう。
自伝でも言っていましたが、リンゴ園が潰れなかったら今日の人生はなかったと。
でも、人生と言うもの良い事ばかりはなく、昭和31年に、長男、勝男君がちゃんこ鍋にしりからつっこんで、火傷がもとで亡くなります。
自伝で、述べています。
「親の不注意を責めるべきか、天の無慈悲を怨めというか、そのとき、私はよく気が狂わないですんだと思う。・・・」
この事故が彼を信仰の道にすすめ、数珠を肩にかけて土俵を努める姿が注目を受けるようになりました。
後は、長女幸子さんの離婚でしょう。
二代目若乃花と結婚するのですが、破局します。
マスコミでいろいろと言われていましたが、二子山親方が強引に決めたことが原因と伝えていたように記憶しています。
脱税問題を起こしています。
中野税務署が二子山部屋の経理にメスを入れたのです。
それまでは各地区の税務署は相撲部屋に対しては国技だからといって税制面で厳しい監査はしていなかったようですが、時代の移り変わりでしょう。
バブル景気が終わった平成7年ごろの出来事ですが、その頃の景気でも多くの収入があったのでしょう。
相撲部屋、税に対する「甘えの構造」「ゴッツァン」体質を変えることを迫られます。
そして今、財団法人相撲協会の体質の改善を求められています。
新理事長 放駒親方に「大変な時期だ、しっかり仕切れよ」とお見舞いに訪れた時、話したとのこと。
ご苦労様でした。昭和の御代、大変な時期を克服しながら生抜き、波瀾万丈の人生ともいえます。
ご冥福お祈りします。
合掌
<追記> 白鵬 大技「呼び戻し」で土俵の鬼継承
白鵬が”土俵の鬼”の技を継承する。立浪一門の連合稽古が2日、東京都江東区の伊勢ケ浜部屋で行われ、横綱・白鵬は申し合いで新十両・宝富士を「仏壇返し」とも呼ばれる大技「呼び戻し」で豪快に投げ飛ばした。ネットニュースより
白鵬が以前から、あこがれていたようで、若乃花の映像を見ては稽古していたそうです。
本場所で決められるかどうか?
対戦力士格下で、軽量であればチャンスはあるかも。
参考資料
「土俵の鬼 二子山勝治」 著者 川端要壽 出版 河出書房新社
「花田家三代の謎」 著者 由比三次 出版 ピイプル社
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