戦後生まれのオヤジの会話 –遺骨収集に触れ–

過日、ゴルフが縁で友人となった人に現在の景況について判断を聞こうと喫茶店で落ち合い、会話が始まりました。共に昭和21年、22年の戦後の生まれ、
戦後生まれと言えば、若い世代の代名詞に使われていた時期がありましたが、今は60を越える年代となりました。
彼は、もと銀行員で20数年のキャリヤの持ち主、その後銀行を辞し、不動産関連の会社の経営に携わり、金融、経済に明るいのでたまに会って話し合う機会を持ちます。
現在は、この景況なので会社を閉め警備関連の仕事をしています。
彼のいまの景況の判断は、一言に言えば「物価が下がり続けるデフレ傾向がある限り、回復は見込めず当分この不景気は続くのでは、しかし実態経済とは別にトレンドが変わる何かしらのインパクトが起これば、好転も考えられる」との判断を示しました。
会社を経営している私には、この不景気が早く回復して欲しいと願う立場ですが、長期化すると判断したほうが間違いはないと改めて感じた次第です。
考え方など彼とはウマが合う面もあり会話が弾み、結構長時間の会話になることが多いです。
会話の中で、話題として触れた話を2、3ご紹介します。
彼が勤めている会社には現役を退き、まだ働きたいという人たちが多く居るそうです。従い、彼より年上の人が多いのですが、彼に映る印象は年を取ったからといって、人生に目標をもてない人達が多く居ると感じるそうです。それと墓参りをおろそかにしていることも気になるとも話していました。
それを聞いて、ご先祖様の供養をしなくなる傾向にあるのかなと感じました。それというのも、2008年3月のブログで紹介した経験があるからです。
法要の際、お清めの場で言ったお坊さんの愚痴でした。
「お坊さん曰く『遺産相続争いで、一族がバラバラになり法要をしなくなって困る』。私はそれを受けてこう答えました。『農地解放で土地をとられ、貰った方が遺産相続争いで法要しなくなっちゃ、商売あがったり、これじゃ踏んだりけったりですね。』、
『その通り』と返事がありました。」
核家族化などの影響もあり、そのような行事を大切にしなくなっていると以前より私は感じていました。
彼の価値観の中にご先祖様を大切にする意識が有るのでしょう。
私なども両親からご先祖様を敬うことの大切さは、事あるたびに出身地の奄美喜界島方言で「ウヤフジ、トゥートゥ、トゥートゥ」と言われました。
意味は、「ご先祖様は尊い」となります。
受け継がれている行事はおろそかにするのは文化継承の上でも良くないのではと強く感じるのは年の影響もあるのでしょうか。
私、奄美民謡の稽古は都内大塚の某所でしているのですが、そこに訪れた80近い老人と知り合いになり、二度目に来た時、稽古を見学に来たといい、
稽古が終わるまで居ました。その途中で家に遊びに来てくれというので、付き合うことにしました。歩いて5分くらいの所に住んでいて、その場所、昔は花街で芸者さんが多く居たそうです。町並みをいろいろと紹介してくれるのです。
確かに名残がありました。今は店を閉めている小料理屋さん、その老人が住んでいる家は、もと小料理屋さんの家だったそうで、確かに玄関などには狸の置物などが置いてあり、その風情を感じました。
昔は、池袋より賑やかなところで、芸者遊びをする旦那衆が乗った黒塗りの車をよく見かけたそうです。
こんな話を彼にしたら、遊びの玄人筋は、向島、神楽坂、を使わず大塚、押上で芸者遊びをしていたと説明してくれました。彼は博識で、私より色々なことを知っているのです。
よくよく聞くと、彼の銀行務めが影響しているようです。都内の支店を転勤であちこちと動いているので地域の様子、習慣を知る機会が多く有ったのだと思います。
以前、都内大泉学園の支店に勤務していた時の話で、土地が高騰していた時期取引先の農家の方が、小作人の時の反動で1億円をかけ、金箔を貼り付けた6畳間作った話、その地域うどん好きが多いのは田んぼが無く、小麦しか取れないため、和光方面はその点田んぼがあり米が取れていたとも話してくれたこともあります。
彼が高校を出て、銀行勤めを最初にしたのが浅草だったそうです。彼が育った地域は、埼玉の山奥、初めて都会に出てきて浅草で過ごした経験はこんな楽しい場所があるのかと思ったくらいだと話していました。
その時過ごして、印象に残った話をしてくれました。
鼻緒を作る職人さんが居て、その頃(昭和40年頃)1万円札を新札の百円札への両替をよく頼まれたそうです。その職人さん新札一枚をポチ袋にいれ心付けに使っていたそうです。彼も貰っていた口で、当時の100円はそこそこ使えたそうです。
当時、浅草の店主の方々はそうやって粋な計らいをしてくれたと懐かしそうに話していました。
また、渡し方がうまく、遠慮すると荷物になるものじゃなしと渡されるといっていました。
こんな話に触れたのも、池波正太郎が書いた「男の作法」について書かれた本を私が読んでいて、心付けの渡し方、酒の飲み方、寿司の食べ方、てんぷらの食べ方などの感想を話したことに触発されたみたいです。
こうも続けました。
「落語を寄席で聞いたことがあるかい」というのです。私はテレビだけで寄席に行ったことは無いと答えると、「寄席で聞かなければダメ」というのです。
「艶話などが聞けて面白いよ」と。確かにそうだなと、テレビでは使えない言葉がたくさん出てくる話もあるからなと答えました。
更に、彼は「日本人は、粋を落語で学び、義理人情は浪曲、浪速節で学んだ」と言うのです。いい所突いていると感心しました。
次に強い口調で話し出したことは、「遺骨収集」の話でした。
戦後60年以上もたった今でも戦死した兵隊さんの遺骨が戦場に野ざらしにされているのを気に掛けているのです。
彼は、お国のために死んでいった人たちを蔑ろにする行為と憤るのです。
言われてみて、確かにそうだと思います。
彼の親父さんは戦争を体験しています。徴兵され満州、ベトナム、タイ、ビルマ(現ミャンマー)、インパールと転戦した経歴の持ち主で、※工兵だった為に戦地はいつも第一線で戦ったそうです。
※工兵 旧日本陸軍で、築城・架橋・鉄道敷設・爆破・測量などの技術的な任務に従事する兵。また、その兵科。
その親父さんは、あの戦争の最中満期除隊で兵役を終え終戦前に日本へ帰れたそうです。珍しい例だそうです。
彼が育った場所はある会社の社宅で、そこには復員され人たちが多く住んで働いていたので、戦争の話など聞く機会があったそうです。
復員した人達、同じように口々に言っていたことが「戦争は反対、されどやられたらやり返せ」と。その話を聞いて、戦争を経験し苛酷な目にあっても国を守る事の大事さは忘れていないのだと感じました。
傷痍軍人の話も聞かされていたようで、親父さんや、復員した人などは、天皇の軍隊の軍人が「おもらい」をする行為が許せないとも言っていたそうです。
こんな話を聞くと、徴兵された兵隊さんも誇りを持って戦っていたのかと知らされました。
彼の親父さんの教育方針はただ一点「みっともないことはヤメロ」だそうです。
ケンカに負けることがあれば必ず仕返しをして来いと言っていたと。
当時の親達、母親でもケンカに負けて泣いて帰ってくれば叱責した時代と思います。
そんな環境で育った彼は自分なりに戦争観を持つようになったのでしょう。
<追記>
彼の子供の時の思い出話で、親父さんと「ビルマの竪琴」の映画を一緒に見に行ったそうです。主演が安井昌二で水島上等兵を演じ、コーラス合唱を指導する井上隊長役が三国連太郎だったと思います。1956年に作られています。私等がまだ小学生の頃です。
実際、ビルマで戦った親父さんの映画について感想などを聞き、生々しく戦争の話が記憶に残ったことと想像します。思い出話をして親父さんのことをふっと思い出したのか、彼は言葉を一瞬詰まらせました。一緒に映画を見に行ったのが楽しい思い出として、今でも心に残っているのでしょう。
私は、戦争の最中、戦いが中断した夜、日本兵が「埴生の宿」を歌うと、イギリス兵がつられて一緒に歌う場面、戦死した兵隊さんの供養のために「帰国をしない」と決心した水島上等兵の場面が印象に残っています。
「遺骨収集」の思いの始まりは20代の頃、檀家になっているお寺のお坊さんから言われたことが切掛けの様です。お坊さんが言うには、「戦後は終わっていない、遺骨を探しもしないで」。
彼はまた、
靖国神社に祭祀するのに、写真と紙切れのみそれもおかしいと言うのです。
戦国時代、首を取られれば家来はそれを取り返しに行くくらいの思いをもっていたのにと嘆くのです。
このことで思い出したことがあります。高校時代の先生が、A級戦犯で絞首刑になった東条英機、他の戦犯の遺骨を占領軍は海に捨てたと言い、何と無礼なやつ等だと怒っていたこと。
しかし、後々東条英機について書かれた本を読んだことがありますが、確か遺骨はこっそりと持ち出され遺族に戻ったとありました。
この例でも、日本人はある意味で遺骨を大切に思う精神があったのでしょう。
最近、上坂冬子さんの訃報を聞いて亡くなられたことを知り、女でありながら硬骨漢的な発言をしていたのが印象に残っていたので、本屋で見つけた「老いの一喝」を買って読んだのです。
偶然にも、「遺骨収集」にも触れていました。
遺骨収集目的のNOP法人の存在、それの活動に参加する学生について書かれていました。いまだ150万柱が未収集だそうです。
彼女はこう触れています。
「私としては百万回の平和論よりも一回の現地訪問のほうが強烈な印象をのこすと信じて疑わないので・・・・・『後のことは心配いらぬ』とばかり国をあげて国民に動員をかけて戦場に送り込み、国民も国家を信じ切って惜しげもなく我が子の命を手放した時代を記憶している私にしてみれば、たかが60数年で靖国神社参拝について賛否両論が氾濫し、遺骨収集事業に関してさえ国会で”幕引き論”が交わされている(平成16年10月27日厚生労働委員会)のを知って、国家とはなんと無責任と思う・・・」
毎年、戦没者慰霊祭を8月15日に行いますが、それと同様に国で遺骨収集事業を行い定例化すべきと感じます。
こんなことになるのは戦後、1億総懺悔騒ぎと日本人が敗戦を総括しないまま敗戦処理を済ませた後遺症ではないでしょうか。
彼が言うように、お国のために死んで行った人達をほったらかしていいのかと思います。
引用文献 「老いの一喝」 著者 上坂冬子 出版 産経新聞出版
     「天皇と東條英機の苦悩」著者 塩田道夫 出版 日本文芸社

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