知ってる?志士の母 野村望東尼

この尼さんを知ったのは前回のブログ同様、合気道家望月稔氏「技法 日本傳柔術」からでした。
やはりこの著書の「武士道とは」の項に紹介されていました。
記述は、「女性ながらも維新の志士を多く庇護した疑いで投獄され、拷問を受けながら所信を貫き通した野村望東尼」とありました。
この行動こそ「武士道」と著者は事例として紹介したのでしょう。
この本と出会わなければ知る機会もなかったでしょうが、のちに購入した本に紹介されていたのです。

それが、尋常小學校修身書の載っていたのです。
彼女の性格、信条を著す一文を紹介します。
「・・・男まさりの望東尼は、決して女らしさを忘れる人ではなかった。玄界灘の一孤島に捕らわれの身になった時も、女の身だしなみは、身を清くたもち、かたちをくずさないものだといって、着物などさっぱりとしたものをつけ、きちんとすわって、筆をとったり、紙細工に工夫をこらしたりした。
志士の母ともいわれる野村望東尼は、勤皇のためにたおれた人たちをとむらう念から、自分の小指を切って、その血で経文をうつしたこともある。また、慶応三年九月、討幕のため薩長連合軍が進発するのを見送ったのち、「最後の御奉公をしなけらば」とかたく心に誓い、宮市の天満宮にこもって、勝利祈願をこめ、十七日間断食した事もある。
女の身ながら、勤皇の精神にもえた望東尼の一生は、なんどかがやかしいことであろう。平尾山荘は、今もなお人々の心を励ましているのである。」。
平尾山荘は望東尼の住居です。

この文章、初等科修身四とありますので本の説明によると小学3年生以上とありました。
9、10歳の子供に読んで聞かせて「自分を慎む行い」を諭す資料として使っていたようです。
望月稔氏が、「武士道とは」の項に取り上げたのも、その行動が武士道精神に則ったものだったからでしょう。
小学校の恩師に修身の授業をどうやっていたのですかと質問したことがあるのですが、週の初め月曜日一時限目にやっていたようです。
これを聞いた時、時間設定になるほどと納得したものです。

そして戦後、修身教育が廃止された理由と聞くと「マッカーサーが大和魂を貶めるため」と凛とした口調で語られたことを思い出します。
あの占領政策、日本人の愚民化が目的だったとつくづく思います。
戦後の教育で育った子供たちは老人となり、「老害」「下流老人」「不良老人」と蔑まされる結果に、そして昨今親が子を殺す時代と変質している傾向を見るにつけ、恩師の言った通りと思います。

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