地元史跡を散策、

足腰の筋力維持で、散歩を心掛けて、近辺に散歩コースを何通りか決めていますが、たまには違った場所へと史跡のある福岡河岸、船着き場へと足を運びました。

新河岸川の舟運、福岡河岸

新河岸川舟運の福岡河岸

この説明文を読むと、江戸前期から昭和10年頃まで営まれていたようです。 読んでみて江戸まで行くには当時、どのくらい時間が掛かっていたのかと調べると、思いのほかかかっていました。 ウキペディアより、 「江戸時代、川越藩主松平信綱が、当時「外川」と呼ばれていた荒川に対し、「内川」と呼ばれた「本川」に、「九十九曲り」と言われる多数の屈曲を持たせることによって流量を安定化させる改修工事を実施し、江戸と川越を結ぶ舟運ルートとした。これ以降、本川沿岸には新たに川越五河岸をはじめとした河岸場が作られ、川の名も「新河岸川」と呼ばれるようになった。舟運は特に江戸時代末期から明治時代初めにかけて隆盛した。客を乗せる早舟は、川越夜舟とも呼ばれ、川越城下を午後3時に発って一晩かかって翌朝8時に千住、昼前には花川戸へ着いた。物資の輸送としては並舟と飛切(とびきり)があった。並舟は川越ー江戸の往復を7~8日で行った不定期船。飛切は今日下って翌日上るという特急であった。船は喫水が浅い平田舟で、明治・大正期にはニブネと呼ばれていた。積載量は70石から80石、長さ15メートルくらいのものが多かった。・・・」、※1石は下位単位では10斗にあたり、同じく100升、1,000合に相当する。

これによると、客を乗せるや早舟では江戸までは一日半ほど掛かっていたようですね。歩かずに行ける便利さがあり乗船して江戸まで行ったことでしょう。物資を運ぶ船には今で言う、普通、特急とありそれでも二日は要したようです。 時代劇を見ると交通手段で船がよく使われていますが、江戸の町自体運河が整備されていたので移動には良く使われたでしょうね。籠に舟、当時の交通手段で普通、特急は馬となりますか。

船着き場の入り口、高低差が結構あります。荷揚げは一苦労したかも。

船着き場の入り口、高低差が結構あります。荷揚げは一苦労したかも。

史跡として、石垣、コンクリートタイルで整備されていました。

史跡として、石垣、コンクリートタイルで整備されていました。

舟の長さが15メートル位、この河岸に横付けして江戸から運んできた荷物を下ろして上までは運ぶには力仕事でしょうね。 港湾労働の沖中仕じゃないけれと一枚の上を渡ったのかな?担ぐコツもあったでしょう。 いまじゃセメント袋も負担がない様にと20キロと少なくっていますが、昔は40キロあったと思います。昔は筋力も大いなる能力だったと思われます。 筑豊炭鉱でも、炭鉱夫二人力だと倍稼げたわけですから。 昨今、肉体的負担を軽減するために筋力の補助をする機具もできて肉体労働も改善されています。 こんなことを思うと、現代人より、あの時代の人達、足腰は強かったといえますね? 300年も続いた舟運、東上線の出現で衰退しましたが、舟運に関わった人達延べにすると何人従事し生計を立てていたのでしょうか。 経済効果は多大であったように思えます。 近辺には調べると史跡が結構あります。 いつか散策しながら訪れてみよう!

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