この本を読んで19世紀末に起きた日本ブーム、ジャポニスムと言う言葉が浮かんできました。
「ジャポニスム(仏: Japonisme)、あるいはジャポニズム(英: Japonism)とは、ヨーロッパで見られた日本趣味のこと。フランスを中心としたヨーロッパでの潮流であったため、ここではフランス語読みである「ジャポニスム」に表記を統一する。19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)へ出品などをきっかけに、日本美術(浮世絵、琳派、工芸品など)が注目され、西洋の作家たちに大きな影響を与えた。1870年には、フランス美術界においてジャポニスムの影響はすでに顕著であり、1876年には”japonisme”という単語がフランスの辞書に登場した。」。ウキぺディアより。
日本では、明治維新があって近代国家をめざし、ヨーロッパから産業・工業技術を盛んに導入していた頃です。ヨーロッパでは日本美術(浮世絵、琳派、工芸品など)が注目されて、その頃の日本の美術品が多く流失したと聞いています。日本では、西洋ブーム、鹿鳴館で代表されるように西洋文化を様式をまねる風潮があり自国の文化の価値が観えない時期でした。
更にその頃、柔術がヨーロッパに普及し、上流階級では護身術として人気があったようです。それ以降ご存知のように多くの指導者がヨーロッパに渡り、柔道として普及させ現在に至っています。
それにつられる様に戦後、武道、空手、合気道も広く普及しています。
本家の日本より武道に関心が高いのはそんな時代背景も影響しているのでしょうか。
この本を読んでいるとそれだけではなく、近代国家となって日露戦争に勝利した事もその一因と思える事柄が記述されていました。
それに日本人が持つ民族性、謙虚、礼儀正しさ、徳性が影響している様に思えるのです。
その顕著な例がフィンランドです。
「日露戦争と伝説の”トーゴ―ビール”」の項に、
こんな記述がありました。
「・・・12世紀半ばから、フィンランドは西隣のスウェーデン王国に征服されていたが、ナポレオン戦争を機に今度は東隣のロシアから侵略を受ける。ロシア皇帝ニコライ二世は、フィンランドの軍隊を掌握し、さらに憲法をとりあげてロシア語を公用語とするなど、宗主国の座に収まった。1905年、日露戦争で日本が勝利すると、それまでロシアが支配していたオーランド諸島がフィンランドに返還されることになった。すると、ここには自分の国の人々が暮らしているといって、スウェーデン王国が「待った!」をかけた。両国間に横たわるバルト海に浮かぶオーランド諸島は6500もの島々が点在する諸島で、昔から軍事基地の要衝だった。スウェーデン語で「水の土地」を」意味する「オーランド諸島は住民ののほとんどがスウェーデン人で、スウェーデン語が話されていた。とはいえフィンランドにしてみればもともと自国の領土で、スウェーデン王国がフィンランドを支配した時代に、スウェーデン人が移り住んできたと主張。そこで問題解決のためスェーデンが国際連盟に願い出ると、フィンランドもこれに応じ、仲裁に登場したのが当時国際連盟事務次長だった新渡戸稲造だった。新渡戸氏は両国の歴史と事情を鑑みた結果、ここをフィンランド領とするが、フィンランド軍の駐留を認めず、公用語はスウェーデン語とし、軍事・外交を除いた高度な自治権を与えて非武装中立の島とした。この「新渡戸裁定」いわれる名裁きによって、バルト海の軍事基地に役目を担っていた島が、のちに国際社会のモデルとなる平和の島に生まれ変わった。このときイギリス人のドラモンド国際事務総長は、不寛容な西洋文明に、寛容な精神を教えてくれた」と新渡戸氏の英断を高く評価したという。また、今も島の住人は「島に平和をもたらしてくれたミスター・ニトベを尊敬してる」と感謝の言葉を口にする・・・」引用文、
さすが、「武士道」を著した新渡戸稲造、武士道精神をもって解決策を考えたのでしょう。
だてに書いたわけではなく「言行一致」を実行した人物と思う。
日露戦争の影響でヨーロッパ、アメリカとベストセラーになったと聞いています。
その人柄が仲裁を成功させる力になっているような気がします。
明治時代、教育の根幹に武士社会で育まれた精神が生かされ徳性が育まれたのでしょう。
それにしても日露戦争の勝利は、ヨーロッパの国に多大な影響を与え、そして植民地だった東南アジアの国々に大きな希望を与える歴史的出来事だったようですね。
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