三島由紀夫と鶴田浩二

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「昭和45年11月25日–三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃–」によると三島と俳優鶴田は付き合いがあり、ともに真情が通じ合うものを持っていたようです。

若い読者には鶴田浩二と言ってもほとんどの人が知らないのではと思います。
会社での朝のミーティング、20代~30代までの従業員、私が持つ関心事、興味、話題などに触れて話すと使う言葉・単語を知りません。
例えば最近亡くなった女優、山田五十鈴、津島恵子の名を挙げても知らないからなのです。
私(JIJI)が若い頃、小さい頃に知った名、彼らまだ生まれていませんからね。仕方がないね~。

 

「鶴田浩二や錦之助、あれよりぐーんといい男」と柳亭痴楽綴り方教室で、2枚目、色男の代名詞に使われる俳優でした。
私がその名を知った映画が「あの丘越えて」美空ひばりと共演、「雲流るる果てに」主演、特攻隊員を演じていました。その後現代劇、時代劇と活躍するのですが、三島と知り合いになる切っ掛けが「総長賭博」でした。
当時、東映、高倉健などの任侠映画が流行っていました。
「網走番外地」藤純子の「緋牡丹博徒」など見に行ったものです。

藤純子、着物で立ち回り、腰を落とし脚を開いた格好がみょーに色っぽかった事印象にあります。 

 

この本では次のように紹介しています。
「・・・1969年、鶴田と三島は「週刊プレイボーイ」7月8日号掲載の対談で、初めて会い、すっかり打ち解けた。三島が映画雑誌で鶴田の出た『総長賭博』を絶賛したのだが、そのきっかけとなった。当時、東映のヤクザ映画はまともな映画評論の対象でなく、三島のような高名な作家が論じたこと自体が話題になり、鶴田は感激していたのだ。二人は、ほとんど同年齢だった。三島が1925年1月14日生まれで、鶴田は1924年12月6日生まれだった。しかし、鶴田は学徒出陣で軍隊経験があるが、三島にはない。対談は、こう結ばれる。

鶴田 僕はね、三島さん、民族祖国が基本であるという理ってものがちゃんとあると思うんです。人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。
三島 そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。
鶴田 昭和維新ですね、今は。
三島 うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。
鶴田 三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくかけつけるから。
三島 ワッハッハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。
しかし、決起の時、三島は鶴田には電話をかけなかった。村松英子は著書で鶴田浩二のこんな言葉を紹介している。<三島先生が亡くなった時、僕はやむにやまれぬ気持ちで日本刀を抜いて、号泣した。>・・・」
この引用した文章に、肝胆相照らす真情が記されています。

「民族祖国が基本であるという理」の一語に尽きます。

 

鶴田浩二、芸能活動の他に旧軍人の集まりに参加していたと記憶しています。
彼の胸の奥底に、戦後日本人が放棄した国防の大切さを認識していたと。
彼の表現でしょうか軍歌を歌っていますが、亡くなられた軍人への鎮魂の為に歌っていたのだと。
平和ボケで67年、尖閣列島の中国侵犯でやっと気づきだした今の日本人、鶴田浩二はこの頃にそれを心配していたのでしょう。彼の表情に「憂い」が映るのはそのせいかもしれない。

三島は主権国家たるに国の楯、国軍の必要を命を賭けて促したわけ。
今になってそれば見直されるようになっている。

私もその一人です。

国家としてこの一点が抜けていたからこそ、国際社会において外交面などで3流扱いされる国に成り下がったのでしょう。

隣国に属国呼ばわりされるほどの為体、もう気づかなければ手遅れです。

国際社会の常識に気づきだした日本人、三島が命を賭けて行った行為がここに来て生きているのでは。
選挙にその思いが反映されるかどうか?

参考資料

2012112611080004.jpgさらに詳しくはこちら

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