「黒だんど節」は名曲の一つである。歌詞も亦全体的に土から生まれ出たとでもいう生活歌的なところがあって一般から親しまれている歌である。曲名の「くるだんど」は空色が黒くなったぞ、雨曇りしたぞという意味で、それには次のようなような発生譚がある。年代は分からないが、そう古い歌でもなさそうである。名瀬市大熊での話、12、3歳の子守娘が背中の子をあやしながら、仲勝こっちの空が雨曇りしたのを見て
くるだんどー 仲勝ごっちぬ くるだんどー
ゆるくびぢゃー 栄多喜主や ゆるくびぢゃー
泣きまえぢゃー 宮松あごくゎや 泣きまえぢゃー
と謡った。意味は「雨曇りがしたぞ、仲勝ごっち(こっちは耕作地のこと)の空に雨曇りしたぞ、地主の栄多喜翁は待望の雨が降って砂糖車が動いて砂糖の生産ができるから大喜びだが、やんちゅう(農奴)の宮松あごはこぎ使われるので悲劇だーというのである。雨曇りという一つの自然現象に対して、人間社会の対立差別相を捉えて謡ったところは無智な小娘の歌とおもえない立派な詩である。五七五調をなしたその詞には自らなる韻律と抑揚が伴って口ずさむにふさわしい。それが次から次と子守友たち仲間にうたわれて広く一般の人々の口唱に乗って、旋律も次第に精錬されて今日の名曲に発展したのである。
以上のようにして生い立った「黒だんど節」は、それが大和村から宇検村あたりに流行した頃までは、依然子供たちの唄う子守唄や手まり歌の域を脱しない極めて幼稚なものであった。然しその土地ヽヽで色々な風に歌われた。たとえば、「くるだんど」の原歌を焼き直したようなもので
くじらどぬ くるだんど
くるみばよ 佐和禎たみあご よろてみじよ
と、いった歌などがうたわれた、意味は宇検の佐和禎という人が湯湾の耕地「くじらど」に小屋を作って妾のたみあごと称ぶ女をかこまって暮らしていた。それでくじらどの空が雨曇りしてやがて雨になると、二人が小屋に閉じこもって大にやるだろう-とのことである。更に「くるだんど」が小さい旅行を続けているうちに、西方村の西古見辺では次のような章句の長い茶目っ気たっぷり贈答式な歌になって盛んに歌われたものだ。
さしぎゃん かっちゃんがで えーたんがー
しゅう欲しゃてど えーたんな
えーたらば さいたなが取てかまんな
さいたなが取てかみゅんちし ながれれば いきゃしがしゅん
ながれれば ぼほんぬ葉いざさがらんな
さがりゅんちし 手切りば いきゃしがしゅん
手切ばや いちゅて ほくわ つつまんな
ちちみゅんちし やれれば いきゃがしゃる
やれれば 針くわし 縫わんな
縫ゆんちし 針くわぬ折れれば いきゃがしゅん
針くわぬ折れれば かじかじ しめらんな
しめりゃんちし 手くわ焼けば いきゃしがしゅん
手くわ焼けば 浜角口じ すがわさんな
意訳すれば、「おヽ、泥がにをそんな沢山採って、そして何とお前は痩せていることよ、肴不足でそんなにやせているのだろう。そうだったらそんな泥がにを採らないで、川えびでも採って食べたらどうだ。
でも、川えびを捕えんとして水に溺れたらどうする、そのときは葦の葉につかまりなさいよ、葦の葉につかまって手を切ったらどうする、手を切ったら絹の布(きれ)で包みなさいよ、布(きれ)が破れたらどうする、そのときは針でぬいなさいよ、針が折れたらどうする、そのときは鍛冶屋にもっていきなさいよ、手を焼いたらどうする、手を焼いたら浜辺に行って風に吹かれなさい」
と、いったものでる。その後古仁屋を中心として瀬戸内方面で盛んに歌われ次第に詩形も整い旋律も精錬されて「くるだんど節」全盛時代が到来した、当時
くるだんど一番や 阿鉄小名瀬
手舞ぬ一番や 東や嘉鉄
という歌などが流行って、「くるだんど節」は阿鉄、小名瀬の人々が最も得意であるとされたのである。
名瀬間切大熊の子守娘が、仲勝ごっちの空の一角が雨曇りしたのを見て、鋭くこれを人間社会に取り入れて、歌にしてから、5、60年「くるだんど節」は万人の共力を経て現在の名曲に発展したのであるが、民謡の発生と発達は凡そこういった形を取ってなされるのではなかろうか、「くるだんど節」こそは、その具体的一標本だと思うのである。
文 英吉著昭和41年12月15日出版
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