奄美民謡・考察・

私は、趣味のひとつに奄美民謡を稽古しています。その稽古の関連で6月中旬、奄美民謡の歌詞を読み砕く勉強会に参加しました。その時、勉強した民謡(島唄)、方言について感じた事柄、感想を述べたいと思います。
当然のことながら、歌詞は奄美大島の方言が使われており標準語と違い、使われている言葉の意味、発音などを理解するために行われました。
教材として、『奄美大島民謡大観』著者 文(かざり)潮光が使用されていました。昭和8年に発刊された本です。75年以上たっていますので、初版はなく復刻版を入手しました。それでも発刊は昭和58年です。
講師の方から、この本は奄美民謡を歌う方々のバイブルみたいな存在となっていると説明がありました。

この説明を聞き、納得できる事として、著者が歌い継がれてきた島唄が失われつつある状況を憂い本に残そうと当時の島唄を記録し、また歴史的な背景などを記述し、あわせて出版したこと。
著者も本の中で語っています。
『我が奄美大島の民謡は、血燃ゆる南國的情熱と、こまやかな人情と、更に暗き生活環境から、醸成された深刻にして哀切、而も幽妙高雅な氣韻を湛えた古典的価價高い藝術である。然るに、それが今や生き殘れる古老の運命と共に永久に湮滅の墓の彼方に葬り去れんとする状態にあることは何よりの遺憾事とされねばならぬ。私は數多き我が民謡の名曲佳編が年とともに一つ一つその姿を失って行く有様を見て痛歎に堪えぬものの一人である。』
暗き生活環境、醸成された深刻にして哀切と記述があるのは、「1607年(慶長14年、島津氏の琉球侵攻の結果、奄美諸島は琉球から分割されて、薩摩藩に直属する領土となりました。それからあと、1871年(明治4年)に廃藩置県の制度ができるまでの260年間、私たちの先祖は、封建政治のもとで、苦しい生活をしなければならなかったのです。当時、薩摩藩は財政的に、非常に困っていました。 奄美諸島を経済的に利用するだけで、文化の発展などについては、全く考えてやらなかったようです。 しかも、1706年(宝永3年)、薩摩藩は奄美諸島の人民の系図や文書の記録類を取り上げて焼き捨てたのです。」奄美郷土史選集より・・・そんな背景があり、そのような記述があるのです。
私も、子供心にそんな話を聞いていました。サトウキビから取れる黒砂糖を作らせて、それを交易して財政を豊かにしたと。もう30年以上も前になりますが、おふくろの従兄弟が和歌山から家に遊びに来た時、会話の中で「何が、薩摩じゃー」と言って憤っていたことを思い出します。

薩摩藩の明治維新の財源の基は砂糖にありました。奄美のお陰で維新ができたと言う人もいます。
「人民の系図や文書の記録類を取り上げて焼き捨てた」とありますが、支配する側の常套手段のようです。日本も占領政策で民族の根幹を成す、精神、史書、記録などを奪われています。民族の誇り、歴史、文化を消すと扱いやすくなるのでしょう。
前置きが長くなりましたが、どんな内容の勉強をしたかと言うと、島唄が形成された歴史、島唄の解釈および発音でした。
本にこう説明されています。
「以下、私は平家来島時代と琉屬時代、薩摩藩服屬時代の3期に分ちて夫々の時代の我が歌謡に及ぼした影響の跡を眺むることにしよう。・・・・・
中略・・・・壽永の秋、壇の浦に敗れてその榮華の幕を閉じて以来、一族の中資盛、行盛、有盛の郎黨と共に南島落ちをなし我が大島に辿り着いて・・・」
島民との交流が始まり、万葉の文化が根付いたと説明しています。
その経緯を大島の古い八月歌で紹介しています。
手習(でつしょ)初めたろ誰(た)がよ初たろ
やまときょら夫婦(をとじょう)が初め定め
意味は、手習い學問は誰が初めたか、内地から下った美しい夫婦の力によって初められたのであるとの意味であるが、美しい夫婦とは平家落人を指しているのだと云われている。
やまときょら夫婦(をとじょう)やきゃしやる生(ま)れしやしが
いじる名ぬかじ口ぬさたよ
と云うのがあり、これは内地からお出た美しい夫婦の方は如何なる高貴の生まれをされたれば斯くは賢く美しいのだらう。
島の人々が平家落人を心から禮讃した歌と紹介しています。
琉歌として次のような歌をあげていました。
肝ぬもちなしや竹(でぇー)如(ぐとう)直く
義理ぬふしぶしも中に込めて
<意> 心の持ち方は竹の如くまっすくで、義理、人情の心根がある。

どくささ(元気)とも梅や雪霜に
つめられて(くるしめられて)あとど匂いやましゅる
<意> 梅が雪や、霜などの悪天候に耐えた後、匂いが一際は増すのと同じように試練に耐えてこそ
健全に育つ。
教訓的な内容になっています。
それが、薩摩藩圧政下の時代になると、歌詞も悲痛な物になってきます。
「極端なる搾取と苛酷なる壓迫とに如何に島民は泣かされたことか。」
島の民謡に
かしゅてしゅてしやんなたん爲なやんが
倭いしゅぎりやが爲どなゆる
<意> かうして油汗を流して働いた所で誰が爲になるか。やまといしゅぎりやすなわち内地のちょん
まげ役人の爲にしかならない。
きょら生まれ女嶋ぬ爲めなゆめ
倭いしゅぎりやが爲どなゆる
<意> 美しく生まれた女はお互島の人の爲ぬはならない、やまとちょんまげ役人
の爲である
代官や下役人は人妻云わず娘と云わず美貌の女は彼等の玩弄物に奪った。
隷属的な立場の悲惨さが伝ってきます。
今現在は時代も変わり、奄美は観光地化してそんな悲惨な時代があったことを
忘れ去られつつあるのではないでしょうか。
勉強会に参加して改めて島唄の由来、意味を知りました。
発音に関しては島唄を教わる時、正確に出すよう注意を受けますが、難しい面
があります。
例えば、「玉黄金」(たまこがね)なる文字を上げて發音を説明していました。
がねはがねでもなければ、がねでもない。その中間語であり「けだもの」
でもなければでもない又でもない。日本文学にはない發音。
と記述していました。
行きゅんにゃ加那節などは初心者が習う歌ですが、方言で発音しなければなりません。
歌詞に「米(コメ)」と言う言葉がありますが、
「米」は奄美本島では「クムィ」、喜界島では「フミィ」と発音します。
叔母より、本島で「カ行」で発音するものが喜界島では「ハ行」の発音になるよと教わったことがあります。
「金」は「クワネィ」、喜界島では「ハネィ」です。
地域が変われば、言葉、発音までが違うのです。
喜界島方言集に発音に関して次のように説明しています。
喜界島語の母音は[a][i][u]の三音が基本で、国語の[e]は[i]に発音されるのが普通である。これを50音図に比較してみると、国語の「イ」列は「エ」列の両音列はいずれも喜界島語では「イ」列に、「ウ」列「オ」列の両音列はいずれも「ウ」列に悉く合併して発音されるのである。
例えば、「喜界島語」の方言を「シマユミタ」と云いますが、国語読みすれば「シマヨミタ」となり「オ」が「ウ」と発音されています。
また、「シマユミタ」は喜界島の人が話す方言を意味しますが、奄美本島の人は自分達が使う言葉を「シマグチ」と言います。
この本では発音学的な説明をして、一助としていますが読んだだけでは理解できないのが現実ではないしょうか。
※ 喜界島語の用例
国語で「本当」は「フントー」となり、フンの語尾を上げ、トーは語尾を下げて発音します。
しかし、昭和16年に出版された喜界島方言集では「プントー」となっています。前の発音を教えて呉れた人は戦後生まれ、発音が変わったのでしょうか。
「プントーナ」→「本当か」の意味なります。
他に
天気良くば行かん  → ティンキ ユタサラバ イコ
天気悪しくとも行かん→ ティンキ ヤサティム イコ
この花は白くない  → プンパナー シルサ ネーラン
子供の頃から成人期頃まで、親戚が集ると会話はシマユミタになり、判らないまま聞いていましたが、何度も使われた言葉は覚えるものです。
幼児の頃は「だやー、テル子くわな。はなさやー」とよく言われました。
意味はこうです。「あなたはテル子の子供なの、可愛いわねー」です。
「テル子」はお袋のことです。
※ 「くわな」の発音ですが、喜界島方言集の発音の説明から私なりに解釈すると、無気音で喉頭破裂をし、「く」と「わ」を同時に発声する思いで、息の出方を少なくしてやるのでは。
<補足>喉頭破裂=勉強会に参加されていた70半ば過ぎの方に、「カ」と「ク」の間の発音はどのようにするのですかと尋ねた時、「喉に引っ掛かかった感じで出すと」説明を受けました。
私の推測ですが、喉にものが引っ掛かった時、それを取り払うような動きがそれに相当するのではないかと思います。
しかし、今では喜界島でも標準語しか使われなくなりました。それは標準語を使うように強要したことに起因します。
戦前から国は方針として、全国共通語を国語の発音に統一しようとしていました。
戦後になり、鹿児島では強力に推し進めていたようです。
教室で使うと先生から注意され、札を首にかけられ反省を促されました。
札には「私は方言を使いました」と書かれていたそうです。
当社にいる喜界島出身者の経験談です。
私の家内は鹿児島ですが、同じ様に注意されたそうです。
でも、地域差はあったようです。身近にいる人たちそれぞれに聞くと、熊本、岩手、宮城などではそうしていなかったようです。
しかし、メディアの発達もあるのでしょうが、子供の頃に比べると地域差などが薄まり、方言は聞かなくなりました。その結果、喜界島では70歳過ぎの老人までもが方言を使わなくなっているそうです。(喜界島出身者の弁、昨年秋還暦の同窓会で帰省した時の印象です。)
本当の意味の方言を喋る人は、地域関係なく昭和初期生まれの人達にまでに限られてきた様に思います。
民俗学者の柳田国男は昭和16年に編纂した「喜界島方言集」でこう述べています。
「言語が我々祖先から相続した最も大切な文化財であることは、いかなる老若男女、いかなる階級にも行き渡っているのを見てもわかります。古来この財宝を最も有効に、又適切に利用し得た国が、文化の栄えを認められて居ります。
将来も亦必ず同じことであろうと信じます。」
奄美大島民謡大観を著した文(かざり)氏とある一面、同じ心配をされて喜界島方言集を編纂したのかなと推察します。
「肝属郡方言集」なる本も持っていましたが、家内の兄が肝属郡なので方言をしっかり守って欲しいという意味を込めて贈呈しました。
しかし、やがては方言は無くなり奄美民謡のように唄で伝えられるだけになるのでしょうか。
追記 7月22日、奄美大島では皆既日食が見られるという事で、観光事業の一貫として盛り上がりを見せているそうです。
最近、 私が所属している奄美民謡教室も入会者が増えてきました。
奄美大島のブームなのでしょうか。
※ 参考資料「奄美大島民謡大観 復刻版」著者文潮光 出版南島研究出版社
「喜界島方言集」 編者 柳田国男 出版 国書刊行会
「奄美民謡大観」 著者 文英吉 出版 文秀人
「奄美郷土史選集 第一巻 」 坂井友直 出版 国会刊行会
補足 喜界島方言集を知ったのは、叔母が戦前島に言語調査に来た人たちが居り、言語学的に万葉の言葉が残っていると教えてもらった事が入手する切っ掛けとなりました。
例 食籠(じきろう)→じきるー 今で言う弁当箱です。
参考文献1 001s.JPG
参考文献1 002s.JPG
※ 教室のご案内はこちら

1件のコメントがあります

  1. midoriさんより2009年7月22日6:41 PM

    こんにちは。
    先日は参加いただき、またこのようなすばらしい考察を発表していただきありがとうございます。
    勉強しても勉強して及ばない奄美島唄の奥深さに悶えながら、大人になってから熱中できるものに出会えた幸せもちょっぴり感じるこの頃です。
    これからもよろしくご指導のほどをお願いいたします。

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