表題の言葉、高校の時、今から51年前先生が教えてくれた中国人の特徴、漢文の授業の時だったと記憶しています。
確か記憶を辿れば、「中国の歴史は民族間の覇権争い、国が変わる度に従来の決り、規則、約束などが反故にされてきた為、そんな環境で心性が育まれた」という内容だったと思います。
今振り返れば、公立の学校でなく私立、そして齢は70を超え戦前からの先生だからこそ授業で言えたのだと思います。
教育制度についても戦後の学制はよくないと憚らず言ってました。
当時は、戦前の反省から今の学制になったとの認識ですが、現体制が良くないと堂々と批判していました。
私立であるが故、日教組に所属する先生はいなかったから戦後の教育制度を批判できたのかな!
授業はよく脱線して、面白い話が出て私にとっては楽しみのある授業でした。
ある時は、剣豪荒木又右衛門の話が出て、例の36人斬り・・・
「・・・寛永11年(1634年)11月7日、数馬と又右衛門は伊賀上野鍵屋の辻で河合又五郎を討ち、仇討ちの本懐を遂げた。数馬側は4人のうち1人死亡、3人負傷、河合又五郎側は11人のうち4人死亡、2人負傷、5人無傷(逃亡)だった。このときの又右衛門は「36人斬り」などともいわれるが、これは講談などによる誇張で、実際に斬ったのは同じ大和郡山藩の上席剣術師範・河合甚左衛門(又五郎の叔父)と尼崎藩槍術師範・桜井半兵衛の2人である。・・・」、ウキペディアより。
此の際、荒木又右衛門、従僕に尻を打ち据えられたが木刀であったため命を落とさなくて済んだとか、真剣であれば尻を斬られて出血多量で死ぬとこだったと言っていました。
そんな話が面白く、授業を受けていたので肝心の勉強は二の次に・・・
他には、庇いながらの立ち回りは実力の半分しか出せない、戦前の高校生はシェークスピアは読めたが今の学生はと叱責してた。
でも外国人が源氏物語を読むレベル、話を聞いて凄いなと~感心したことも。
背が低かったけど、剣道で鍛えた声は大きく生徒を圧するに十分な音量、授業では生徒みんな緊張して授業を受けていました。
先生らしい先生、ほかに出会った事がありません。
真偽のほどは分かりませんが、川端康成を教えたことが自慢の種でした。
そんな先生からのお言葉、身に染みてその事を忘れることはありませんでした。
そんな視線で中国を見ていると全くその通り、なぜ先人の知恵、教えを忘れ中国に迎合したのでしょうか。
「・・・戦後補償をめぐる訴訟で中国の上海海事法院が商船三井の船舶を差し押さえたことに対し、日本政府は昭和47(1972)年の日中共同声明ですでに「解決済み」となっていた日中間の損害賠償問題を中国側が蒸し返したとして警戒を強めている。近く中国に外交ルートを通じて抗議。国際司法裁判所(ICJ)への提訴も視野に対抗措置を検討している。
政府高官は20日、差し押さえについて「国内外からの中国への投資はどんどん減る」と牽制(けんせい)した上で、「ダメージは中国の方が大きい。やり過ぎだ」と不快感を示した。
政府は「日中間の請求権の問題は、日中共同声明後、存在していない」(菅義偉(すが・よしひで)官房長官)との立場。しかし、中国司法当局が戦時中の「強制連行」をめぐる対日訴訟で3月に訴状を受理して以降、今回の案件で差し押さえに踏み切る可能性もあるとみて、早くからICJへの提訴を含む対応を検討していた。
中国では戦時中に日本に「強制連行」されたとする当事者らによる日本企業への提訴が続いており、このまま放置すれば日本企業の資産の差し押さえが相次ぎかねないためだ。
ICJに日本が提訴し、中国側が審理を拒む場合、中国側には拒否理由を説明する義務が生じる。日本側はこうした点も踏まえ、まずは外交ルートによる抗議などを通じ、中国側に理性的な対応を求めていく考えだ。・・・」ネット記事より。
日本流に誠意を汲むなどの心性は持ち合わせておらず、言いがかりばかりではないですか。
靖国参拝、内政干渉、南京大虐殺の捏造、ODAで軍備拡張?などなど
こんなニュースを聞くたびに日本は馬鹿だとしか思えません。
先人の知恵、教えを生かせないなんて!!
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