この方、日露戦争、203高地の戦いを勝利した将軍として有名な人。
子供の頃より母からその存在を知り、親に連れらて乃木神社へ行った経験も深く記憶にとどめる結果となりました。
この部屋で自決したと聞いたとき、神妙な気持ちで窓越しから覗いた記憶があります。
昨年、青山葬儀所へ出向いた際、60年ぶりに乃木邸を観に、佇まいに記憶があり懐かしく眺め、ある種の感動を覚えました。
母が常々言っていたこと、「私のじいさんは乃木将軍にそっくり」と言っていたことも強く関心を持つ結果となりました。
私の曽祖父
小学校4年の時、切手蒐集が流行り、菊のご紋章のついた乃木大将、東郷元帥の切手を集めた事など、
乃木希典に関心のある私、もっと詳しく知ろうと思い最近、買い求めたのが、「乃木希典」「乃木大将と日本人」でした
その一冊である「乃木希典」を読み終えて最も強く関心が湧いた記述の感想を述べてみたいと思います。
乃木希典を詳しく知る結果になったのは、中学時代に見た「明治天皇と日露大戦争」でした。
西南戦争で軍旗を奪われる屈辱を味わい、203高地の戦いではご子息2人を失い、数万の戦死者をを出す熾烈な戦いの中、指揮官としての能力に非難が集まりますが、明治天皇の信任熱く、「乃木を変えてはならぬ」とのお言葉が。
そして天皇崩御の際、殉死した事がその人柄、人格を高める結果となりました。
当時それを非難する人もいたようですが、その事は世界的に広く伝わったそうです。
なにせ、ロシアを負かした将軍として有名でしたから。
「有能であることは、大事なことか」とのタイトルがついている頁の内容が強く私を惹きつけました。
「今日、私たちは、児玉を称揚することはあっても、乃木を敬慕することはない。それは、私たちが機能主義の時代にいきているからにほかなるまい。機能で、能力で、人を評価することに馴れている。馴れすぎていて、疑うこともできなくなっている。有能であること、賢明であることだけが、人を尊敬する理由になってしまったのでは、私たちが合理的になったということだけではないだろう。むしろ、それは、いかに視野が狭くなったかを示しているようにも思われる。・・・」
この文章を読んだ時、「乃木を敬慕することはない」と書かれていたことに思いが錯綜しました。
小さい時から立派な人と教わり、そのような思いもっている私には戦後、人格者としての伝えが途絶えたことが一因であり、私らの親世代では有名人、戦後の教育で伝えられないとことが大きく影響しているとの思い、そして司馬遼太郎の「坂の上の雲」が評価を貶める結果につながっているのでは?。
愚将として描かれたしまった事です。
おぼろげな記憶ですが、昭和40年代だと?テレビ番組で乃木神社の宮司が乃木をかばう発言をし論争していましたがひょっとしたら相手は作者の司馬遼太郎だったのかもしれません。かなり憤慨していたことを覚えています。
確か一時、指揮権を児玉源太郎が執行し勝利したようにと記憶にあります。
彼は翌年の明治38年になくなるのですが日露戦争の心労が原因とも言われています。
でも、日露戦争の勝利は、あの時代に生きたアジアの人達に大きな夢、希望を描かせたことに繋がるのです。
作者は技倆・人格についてこう述べています。
「・・・戦略に於て大将に優ったものは他に在らう、が司令官として人格の必要な事は、大将が後の人に之を示して居る、人格と技倆と往々相伴はぬ。三宅は、「人格」と「技倆」を秤にかけて、あきらかに「人格」を重く見ている。「技倆」の不足を認めながらも、軍人、特に一軍の統帥者としては「人格」が大事だとしているが、このような判断は、現在、あまりにも遠く、遥かなものだ。先の大戦の敗北と、わが国にとどまらない世界的な技術信仰の蔓延の下で、「技倆」のみ求め、頼むことに馴れきってしまった。もう立派は人は必要ないのだ。有徳であることなど、何の意味もない。むしろ害をなすほどだ。しかし、本当にそうなのか。有能であることは、そんなたいしたことなのだろうか。どうでもいいような気もしないではない。有能であることが、人間にとって、本当に大事だろうか。・・・」、
この文章は私にとってかなり衝撃のあるものでした。
小学校の先生からは品格・人格を磨くことの大切さを教えて頂いた事を思い出し、母からは「徳を積め」言われた経験のある私、忘れていたことを思い知らされました。
先生はこう言いました。
「教育とは、自身の人格を生徒に反映させ訓育する事、ただ知識を教えるだけであれば本を読ませれば良い」と。
教師として、人格を磨く大切さを教えられました。これは教師だけでなく人である以上心しておくべき徳目と思います。
会社を経営していると儲かる、儲からないに思いが行き、だんだんと技倆が優先し忘れがちなこと。
日本もエコノミックアニマルと揶揄されているのが現状、戦後の風潮が如実に現れた言葉と感じています。
映画「大工太平記」のモデルになった棟梁、平田雅哉さんに惹かれるのは金儲け以前に人として大事な信条を貫く生き方なのでしょう。
「・・。結局、乃木が尊重されなくなったのは、日本人が、人の生き死にを、直接に問題としなくなったからでもある。人を殺したり、あるいは死ぬかもしれない仕事をさせる、そういうギリギリの場面に立ってこなかった、逃げ続けてきたから、乃木は忘れられた。・・・」
この記述は、大いに反省を促されました。
自身もそうです。
これは今の日本人がもう一度考えてみることと強く感じます。
“いの一番”に政治家に熟読して、考えてもらいたいもの。
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