奄美民謡「かんつめ節」悲恋物語!

今年の東京奄美サンシン会発表会の課題曲として稽古に取り組む民謡です。
選んだ理由は、幼いころ私の家に数ヵ月居候した遠い親戚筋になるオジサンに奄美民謡を稽古し始めた10数年前に「かんつめ節」なら聞いてあげると言われたことが切っ掛けです。オジサンも当然両親と同じ喜界島出身、本当に聞いてくるれかは別ですが、ちゃんと唄って驚かしたい思いがあります。なにせ、私は東京で育ち齢数え60歳で始めたものですから。

「かんつめ節」の説明は「奄美民謡大観」昭和41年12月15日 発行 著者 文(かざり)英吉氏より引用します。
この本は、「奄美民謡大観」の改訂版になります。

この本より、歌詞解説を引用し歌の意味を説明します。
その前に当時の島の暮らしぶりの説明を引用して、理解の一助とします。
奄美群島、琉球の統治下を離れ薩摩藩の統治下になります。
「慶長14年(1609年)、我が奄美大島史の舞台が一変して、島津の圧政下置き換えられることになってから廃藩置県に至るまで凡そ260年、この時代こそ我が民族が精神的にも物質的にもいやすべからざる痛手を受けた受難の時代であった。過酷なる黒糖政策のもと、あらゆる自由は奪われ、生活は牛馬同様に押しつぶされ惨怛たる奴隷史によって綴られた時代なのである。
『腰をおろしても足を洗う家もなく、民の有様は朝夕の食に悩み、礎の藻屑を食し渇さえ湿し難き程なり』とは、島津25代重豪(しげひで)の勸農使として大島を視察した得能通昭の報告であった。島民の惨苦思うべしである。島の人々が如何に自らの運命を嘆き悲しみかつ呪ったかは、次の数種が物語っている。

かしゅて しゃてん、誰(た)がため なゅんか
やまと いちょぎりゃぬ、ためどなゅる

こうして血の汗を絞って仂いたところで、誰のためになるんだ、すべて大和いちょぎりゃ(薩摩の美しい絹の衣を纏った奴共)のためにしかならないのだ―の意・・・」

きょら生れ をなご しまのため なゆめ
やまと いちょぎりゃぬ ためどなゆる

美しく生まれた女は、お互島のためにならない、やまとといちょぎりゃ(前同)のためにしかならないのだ―の意で、当時美人という美人は、娘だろうと人妻であろうと、権力づくですべて彼等の餌食にされたので、それを憤ってうたった歌である。

このような文を見るとに、おふくろの従兄が40年位前我が家に泊まりに来て、酒の席で「なにが薩摩じゃー」と息巻いていたことが思いだされます。

おふくろと同世代、大正生まれであるところからまだまだ当時の暮らしが語り継がれていて、その鬱憤を晴らすかような思いが言わせたのでしょう。
私と同世代の女性から聞いた話ですが戦後間もないころ、その方がさとうきびを道で食べ歩きした時、おばあちゃんから叱られたと云ううのです。
明治生まれと思われるそのばあちゃんが人目を憚る行為と注意したくらい、まだまだ明治に生まれた方には島津の圧政下の余韻が残っていたのでしょう。
圧政下では首が飛ぶくらいの重大な罰だったとか!?
喜界島で戦後に育った人たち主食ははんすう(さつまいも)であり、子供の頃は靴はなく日々の生活は裸足であり、当時各島でも同様な暮らしぶりではなかったのではないでしょうか?まだまだ貧しい日本の頃の暮らしぶり。

さて、歌詞説明に入ります。
「かんつめはやんちゅう(漢字で家人:主人の家で下働きをする人らしい)であった。だが、心だても優しく、器量も人並み以上で歌も上手であった。それは、やんちゅうといっても家庭の経済的な事情で時の制度の犠牲となっただけで、人間として素質的に優秀であったことに何も不思議ではない筈である。そういった一個人の人間が主人の財産として取り扱われて遂に岩加那との恋愛を絶たれ生命さえも自ら抹殺しなければならぬような運命に追い込まれたということは、単にかんつめ一個人の問題でなく、やんちゅう全体の問題があり、又当時虐げられた島の人達のすべての問題だったのである。さればこそ、いつの世になっても十字架を担った一女性としての限りなき同情が寄せられ、涙と義憤を以てかんつめ節が歌われるのである。悲劇の連続であった短いかんつめの生涯については上巻において詳しく叙してたが、以上の概念を頭に入れて次に掲ぐるかんつめ節の曲は彼が最も愛唱し且つ得意であった※『薙節』だったから、これをうたわれることは彼女の良き供養にもなる訳である。
※薙節:?

ゆべがれあしだるかんつめあぐくゎ
なちゃがゆるなたと後生が道みそで振りゅり

(解)昨晩まであんな美しい声で歌あそびをしたかんつめが、今夜は後生が道み袖振ってい行くよ、このみ袖振るの言葉であるが、今は仏となったかんつめ、天において勝利者である彼女をうとうことばとして何とふさわしいそして美しいことばであろう、この世の弱者永遠の弱者ではない筈である、堂々とみ袖を振っていったであろうというのが歌の意である。・・・・・・

かんつめあぐくゎや やっとな死にしゃ
野原ぬやどりなんて 草ぬ葉し花香しらて

(解)かんつめあごくわは、何という気の毒な死に方をしたのであろう。人のない野原の空き小屋の中で、誰一人見守る人もなく周囲に自然に生えた草花を以てそのままは花香にされて・・・・・まことにまことに可哀想なことであるよ―の意

記述に分からい点があり、電話で先生にその事を確認すると教えてくれました。
かんつめの恋人の名が「岩加那」とあり、加那は女性に使われる習慣があり、何故なのかと聞くと「岩太郎」と云う名だそうです。
この本で「岩加那」とあるのが分かりませんが、男の名とわかり納得した次第。
「後生」と云う字も書かれていましたが、解説では「天」が使われているところを見ると、「死後の世界、あの世」の意味に使わているようです。
広辞苑では「死後再び生まれかわること」とありましたが言葉としては「天」と理解すべきなのでしょう。
「やんちゅう」昔の言葉だと奴隷的な立場、人身売買が行われていた当時、経済的な理由で金で買われた身の上なのでしょう。
買われて行った先の主人が、かんつめの美貌に惚れて、恋人の存在をしり、嫉妬から岩太郎と思いと遂げられず、自殺に追い込まれたしまう結果となり、悲劇的な身上に同情し「かんつめ節」で歌い継がれている様です。
この悲恋物語、伝説では18世紀初期のお話(奄美大島民謡大観より)、あの時代「奴隷」と云えば確かに「牛馬」同然の扱い、大変な労苦が伺えます。

先生にお話を伺うと、おばあちゃんから口伝された話が次々と出てくるので驚きます。
先生の家庭環境がそのようなす。島唄に関する話が言い伝えられていたようです。
おじいちゃん、おばあちゃん、そしてお父さん皆、唄者、傍で幼いころから聞いている先生(会主)の頭の中には島唄の歴史・由来などが一杯入って居るような気がします。

いまでこそ、奄美民謡が注目されている時代にはなっていますが、私が幼いころは島民でも歌えるのは一部の人達だったようです。
先生のお父さん、蛇皮線を弾けたそうですが、島の暮らしを考えれば、生活に余裕があったからこそなのでしょう。

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