このフレーズ、三波春夫の言葉としてあまりにも有名です。
使われ出したのが昭和30年代半ば頃らしいです。
いつだったか忘れましたが、テレビ番組で三波春夫がインタビューに答えてその真意を説明していたことを覚えています。
内容を忘れていたので、ネットで調べると「三波春夫オフィシャルサイト」にその説明がありました。
説明には「歌藝の天地」三波春夫著が引用されています。
「『お客様は神様です』という言葉が流行ったのにはびっくりしました。この言葉の真意はどこにあるかと聞かれるが、私もその答えに困ることがある。テレビなどで、短い時間で喋るには、うまく説明が付かない。・・・中略・・・私が舞台に立つとき、敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の藝は出来ない―――と私は思っている。つまり、私がただ単に歌を唄うだけの歌手だったならば、きっとこんな言葉は生まれなかったと思うのです。浪花節という語り物の世界を経てきたからではないだろうか。・・・」
三波春夫、シベリヤ抑留を経験していますが、その時歌に救われた、歌の持つ力を知らされたなどとインタビューに答えていた事思い出します。そんな経験がさらに藝に対する敬虔な気持ちが高まったのではないかと想像します。
この記述から短い時間では上手く説明が出来ていなかったようですね。
このサイトでもわざわざ説明をしているのは真意が曲解されていることを憂い記述しているようです。
「・・・三波春夫にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスの事です。客席にいらっしゃるお客様とステージの立つ演者、という形の中から生まれたフレーズなのです。三波が言う「お客様」は、商店や飲食店なおどのお客様のことではないのですし、また、営業先のクライアントのことでもありません。しかし、このフレーズが真意と離れて使われる時には、例えば買い物客が「お金を払う客なのだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様は神様でしょ?・・・俗にいう”クレーマー”には恰好の言い訳、言い分になってしまっているようです。・・・・」
このサイトを調べる発端になったのが新聞記事からでした。
正に同じような事を書いていました。
産経新聞より。
「私が舞台に立つとき、敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の藝は出来ない―――と私は思っている。」の一節にあたる記述が、
「芸の始原とは、神を前にしてのパフォーマンスだったといわれる。三波さんも、観客を神様に見立てて雑念を払っていた。いわば芸人の誇りを示した言葉である。」
昨今、モンスターペアレンツ、クレーマーが増えだしている世情と、過剰なサービスを見直すべきと論説員は記事にしたのだろう。
学校に対してのクレマーについては、小学校の先生が憂いていたことが思い出されます。
「現場の先生が困っていると。」
新聞記事に拠れば、深刻化したのが10年前と書いているが、教育現場ではもっと前から起きていたようですね。
言葉の解釈は自分に都合のいい様にされがちなものと感じる典型ですね。
言葉の一人歩き。
三波春夫オフィシャルサイトでも曲解された「お客様は神様です」の真意を説明しなければならない事情が、いまの風潮が著しています。
三波春夫が舞台に立つときの心構えだったのが、言葉として「お客様は神様です。」と発した事で、「神様」がイコール「お客様」と思われたのが曲解の始まりと言うことか?
産経抄の論説の結論「そろそろ、サービスの提供者と客は対等という原点に戻るべき時である。お客様は神様でない。」
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