今月は”後藤静香”詩集「権威」篇外8篇から詩を紹介していますが、今回は「勇士還る」です。
2年ほど前、不慮の事故で亡くなった友人からもらった手記(彼のオヤジの親友が書いた)とダブってしまうのです。
その手記は、ソ連軍が1945年8月9日国境を越え、侵略してきた時から北海道札幌まで逃避行するものでした。
タイトル「さらばホロンバイルよ」元日本陸軍特務機関 関東情報部ハイラル支部 横田正二とあります。
当然ながら彼の親父も、その親友も鬼籍となっています。
逃避行の間、妻を亡くし、二人の子供を連れてです。
皆に助けられながらの一年間、本当に凄い体験話。
手記を読むと、日本が統治した13年間治安が良く民衆がその事を懐かしむエピソードがありました。
「・・・ハルピン行きの列車に乗る、満員です。床にあぐらをかく、列車が走りだすと車掌が赤と緑の旗を巻きながら入って来た。君は日本人だな、はいそうです。瞬間、袋叩きか、半殺しかと覚悟する。なぜそっちにいるこっちへ来なさい。と車掌席の隣に掛けよと言う。有難う、あやうく涙が落ちそうになる。どちらまで、ハルピンに家族を探しに行きます。逢えればいいがな。やがて車掌は、満員の乗客に演説をする。ソ連軍より日本軍の方が良かった。我々を襲うたり、物を盗んだりしない。安心して通勤、商いが出来た。赤鼻の野郎、タービンズ(?)、泥棒野郎め、あんなのは軍隊でない、匪賊だ、馬賊の集団だ、そうだーそうだーと溢れる様な拍手でした・・・略・・・横田は車掌に満州国の13年間を色々賛得ていましたが、先ず、5族協和、治安が良かった、教育、鉄道だね、列車が時間通り正確に走る、一番の功績です。満州銀行券です。ソ連軍も、国民党軍も、ハルピンでは共産党八路軍も認めざるを得なかった、中国の歴史上初めての痛快事です。政府が変わる度に民衆は損したが、この度は百円は百円で通用した。まったく貨幣制度に無智であった横田はビックリした。我々の13年間と、五族協和を、日本関東軍の評価、拍手、を・・・あの山、この森、草原に倒れ、永眠せる戦友よ、この話を、拍手を心あらば聞け、霊よ、受けよ、もって銘せよ。・・・」
この様な話を聞くと満州国は傀儡政権と教えるだけでは、当時の国策が見えず、実態が反映されていないことがわかりました。
>我々の13年間と、五族協和を、日本関東軍の評価、拍手、を・・・あの山、この森、草原に倒れ、永眠せる戦友よ、この話を、拍手を心あらば聞け、霊よ、受けよ、もって銘せよ。
この件、当時の国策に殉じ死んでいった同胞に「正しさ」を伝えたかったのでしょう。
当時の満州国の民衆が治世を褒め称えているのです。
感動です、国策が正しかったことの証明です。
>ソ連軍より日本軍の方が良かった。我々を襲うたり、物を盗んだりしない。安心して通勤、商いが出来た。赤鼻の野郎、タービンズ(?)、泥棒野郎め、あんなのは軍隊でない、匪賊だ、馬賊の集団だ、そうだーそうだーと溢れる様な拍手でした。
このような話、子供の頃に聞かされていましたが本当だったのですね。
ソ連兵、点呼の時、掛け算が出来ないので人数の把握に手間取ったとか、こんな話も思い出しました。
彼の地で亡くなられた兵士の思いを思うと、生きて帰られただけでも良かったかと。しかし敗戦と言う現実が待っていました。
『勇士還る』
胸に輝く勲章なく
岸壁に着くも
歓呼の声なし
悄然として焼野をゆく
我が家はいづこ
父よ 母よ 妻よ 子よ
呼べど答えず
焦げたる踏石に腰を下ろし
黙然として在りし日の幻を追う
命ささげし兵士に、敬礼!!
※追記
この手記を書いた横田氏、旅順港閉塞作戦で戦死したと言われた”杉野兵曹長”と会っていたのです。
“杉野兵曹長は生きていた”という本を読んでいたのですが、ネット記事からこんな話を知ることが出来ました。
会って直接お話を聞きたかったな~
参考までに
1.
轟く砲音 飛び来る弾丸
荒波洗う デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処 杉野は居ずや」
2.
船内隈なく 尋ぬる三度
呼べど答えず さがせど見えず
船は次第に 波間に沈み
敵弾いよいよ あたりに繁し
3.
今はとボートに うつれる中佐
飛び来る弾丸に 忽ち失せて
旅順港外 恨ぞ深き
軍神広瀬と 其の名残れど
ネットより引用
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