柔道教室の死亡事故

ネットのニュース記事に柔道の練習で死亡事故と報じていたのに目が行きました。

「大阪市此花区の柔道教室に通う市立小1年の男児(当時6歳)が昨年11月、練習後に死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われた指導者の阪本剛被告(36)に対し、大阪地裁(中川博之裁判長)は5日、求刑通り罰金100万円の判決を言い渡した。
 中川裁判長は、「柔道は事故が起きやすいスポーツ」と指摘。阪本被告には、男児に対する受け身の指導が不十分だった過失があるとし、「『受け身の練習を繰り返すと男児が柔道をやめるかも』と安易に考え、十分に受け身を身につけさせなかった責任は重い」と述べた。
 判決によると、阪本被告は昨年11月10日、男児に連続して足払いなどをかけて頭を激しく揺さぶり、急性硬膜下血腫のけがを負わせ、1週間後に死亡させた。」ネットニュースより。

 

この記事を読んで驚くことは、年端も行かない小1の男の子に連続で技を掛けている事です。
スタミナもない子供に連続で技をかけることは相当な負荷になります。
受け身が出来ても、疲労から十分な受け身が取れなくなります。

これは裁判長が受け身の指導が不十分との過失と断じていますが、受け身の稽古を十分に行っていても体が出来ていない幼児レベルの子供にすべきではない事です。
この指導者の資質を疑います。

私も一時期、合気道の指導をした経験がありますが、受け身の稽古を十分に行いました。
その理由は、頭を打たぬためがすべてでした。
腹筋を鍛えさせ、且つ首筋を強くし、受け身を取る時は顎を引けと注意していました。
頭を強打することは致命傷にもなりかねません。

「柔道は事故が起きやすいスポーツ」とも語っていますが、これは指導者側が気を付ける問題です。
ただ、気がかりなのが、「『受け身の練習を繰り返すと男児が柔道をやめるかも』と安易に考え、・・・・・・」と言っている点です。
受け身の稽古は単調でつまらなく感じることが推察されます。
競技として投げ合いを競う事のほうが面白いが故、練習時間をそれに多く割き練習生の気を引くための判断とも受け取れるのです。
教室の経営的側面も配慮したのかもしれません。

 

 その点、合気道は試合形式の稽古を行いません。

方法は、競い合って高めるのでなく、取(投げる、抑える、極める)と受け(受け身技)と交互に技をかけあうので、無理が生じなく体育的側面から見れば、柔道より事故は起きにくいと思われます。

提唱している言葉は「和合」、「調和」です。これは技法的、精神的にも稽古でのキーワードとなっています。

昨今、競技性重視で武道を素養の糧としてとらえる側面が薄くなっているのではないでしょうか。
礼儀作法を厳しく教えることで、精神性を感得させる指導がなされていないのでしょう。
ですから、そんな指導者が出てくるのです。
この事故、はっきり言えば弱い者イジメととられかねません。

 

明治期、嘉納治五郎が「精力善用」と説き、教育の手段と提唱して100年以上が経ち、今では武道が教育に用いられるようになりました。
剣道もしかりです。
しかし、スポーツとして勝負にこだわりが強くなり過ぎて、内面の鍛錬を忘れているような気がします。
本来の武道教育の目的はそこにあったはずです。
このような指導者が出てきたことは、警鐘と思えるのです。

コメントが 4件あります

  1. シンさんより2011年10月5日9:56 PM

    こんばんは。
    柔道の件は、強い者が弱い者を弄ぶ。という雰囲気を感じます。
    世の中、弱い者いじめが好きな人は多いですよね。優越感に浸れるんでしょう。
    重大な退職要因だと思います。
    精神面が鍛えられていれば逆境にも耐えるんでしょうけど、強靭な精神を持った人はごく僅かですから、これから先、日本が弱体化しないように精神面から何とかしないと。

  2. 上野2011年10月6日9:21 AM

    シンさん、おはようございます。
    コメント有難うございます。
    ニュース記事、そのまま鵜呑みにはできない面がありますが、
    ※「急性硬膜下血腫のけがを」と記事に書いてあります。
    これから、推察するに頭のダメージが原因でしょう。
    ※ 頭蓋骨の内側で脳を包んでいる硬膜と、脳の間に出血がたまって血腫になったもの。
    連続して技をかけた指導員、その状況(受け身が取れていない)は認識できた筈。
    この点から言っても、指導者失格に値します。
    この様な事故を起こすことは、武道に対する印象を悪くしてしまいます。
    「内面の鍛錬が忘れている」と記述した事、私がある出来事に出くわしたからです。
    だいぶ前ですが友人に頼まれある高校の合気道部に指導に行った時でした。
    同じ道場で剣道の練習をしている生徒たちの立ち振る舞いから感じた事です。
    出入り口には靴が散乱し、待機している生徒たちは壁に寄りかかりだらしない恰好。
    私が着替えを済ませ、衣類をバックにしまって柱の側に置きその上に木刀を置きました。
    その時、生徒がそれを跨いだのです。
    剣の代用品である木刀を跨いだのです。
    思わず、生徒を叱責しました。
    その意味がよくわからなかったようなので、剣術の修業をしている身、「武士の魂」たる剣を跨ぐことはどういうことかと言ったのです。
    道場では指導者らしい先生が指導していましたが、作法面においての指導はされていないと感じたのです。
    スポーツ(原義、気晴らし、楽しみ、娯楽)との認識が強くなった結果でしょう。

  3. シンさんより2011年10月6日8:50 PM

    武道は「礼儀に始まり礼儀に終わる」と言いますから、最初から最後まで対戦相手を敬うことが大事で、外来の「スポーツ」と一緒では悲しいです。
    昔の日本は、「武士」の存在が他国からの侵略を妨げたようですね。他国に比類の無い精神力と忠誠心。作法から相手の本性を見抜く能力。
    武士の真髄はよく分かりませんが、尊敬、そして感謝です。

  4. 上野2011年10月7日9:23 AM

    シンさん、おはようございます。
    コメント有難うございます。
    >外来の「スポーツ」と一緒では悲しいです。
    終戦時、マッカーサーの占領政策の一環で武道禁止の時期があり、当時の武道家の方々が禁止を解こうと、殺傷技術としての武道の印象を変えていく工夫をしました。
    その点も影響したのではないでしょうか?
    >他国に比類の無い精神力と忠誠心。
    その精神をマッカーサーは恐れ、その基が武道精神と見抜き禁止したと聞き及んでいます。
    小国日本が、連合軍相手に負けはしましたがその強さに恐れをなしたのです。
    合気道も戦前は、陸軍戸山学校、陸軍中野学校なので教科として採用されるほど、実用性がかわれた時代があり、戦後武道に対しての見方が大きく変わり時代に適用するために健康、体育的面を強調し普及していきました。
    その流れが武道の本質を忘れさせていくことにつながったような気がします。

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