携帯電話が鳴ったので出てみると、「先生、武士道の本、持ってませんか?」と合気道の弟子からでした。
「なんで」と返答すると。
彼が言うに、「自分の周りに、武士道に関心を抱いている人が増えているので、勉強したいのです」と言うのです。
彼の仕事は、アナウンサー、プロレス中継の実況などを手がけて、幅広く交際をしている人物。
「たくさん持っているよ」と返事をし、「時間が有れば取りに来ればと」伝えると「今、池袋にいるのでこれから向かいます。」と返事です。
彼が駅に着く頃を見計らい、車で迎いに行き、会社の事務所へ彼を乗せていきました。
事前に、事務所の書棚から取り出していた10冊ほどの本を見せ、その中から「武士道と日本人」という本を貸してあげました。
すぐ、目を通し読み始めたのです。
余程、関心が高まっていたのでしょう。
彼、今まであまり関心がなかったのでしょうが、一日本人として詳しく知りたいと思うようになったのでしょう。武道・・・「合気道」を稽古していたことが結びつけたのだと思います。
日本が敗戦して、それまでのあり方(政治体制、精神文化)が占領軍の価値判断による是正(これが問題ですが)が行われ、価値観が180度変わって、武士道精神が封建的、軍国主義的なものと批判されるようになってしまいました。
端的な方針が武道禁止です。
当時の武道界に、身置く心ある人たちが働きかけをして復活させたと聞いております
そんな戦後の風潮でも、私にとって気にかかる言葉だったのでしょう。
いつの頃からは判りませんが「武士道は死ぬことと見付けたり」という言葉を知っていました。
22歳の時、その事が、「葉隠」なる本を買わせる動機となりました。
それ以降、武士道に関する本、目に付けば買い求め、その結果10冊ほどの武士道に関する本を持つ結果となりました。
映画「ラストサムライ」が上映されて、新渡戸稲造の「武士道」が売れましたが、
彼にはこう言いました。「外国人が武士を描く映画を観て触発され「武士道」が売れたが、外国人に教えられる形で関心が集まったのは日本人として情けない」と。
浜離宮での合気道演武会で先輩と話をする機会があり、ロシアで合気道の指導をしていた経験談からこんな話が聞けました。
合気道を修行するロシア人の質問です。
「武士道と大和魂はどう違うのですか」。
先輩がどう答えたか聞きませんでしたが、
こんな質問が出るくらいですから、外国では武士道の関心が高いのでしょうか。
それが当の日本では、一部の人々を除いてさほど関心はないのではないかと。
ただ、「ラストサムライ」の上映が切っ掛けで、「武士道」が20~30万部売れたので全く関心がないわけではないのでしょう。
私自身、前述したような質問を受けたら、どのように答えるでしょうか。
考えてみました。
「武士道」の要諦を言えば、自己犠牲の精神(利他の念)、忠誠心、勇気と成るでしょうか?
外国の人には黒澤明監督の映画「七人の侍」などで、サムライのイメージを描いているのでしょう。他に「用心棒」「椿三十郎」この主人公は「弱きを助け、強きを挫く」がテーマになっていると思います。
新渡戸稲造は「武士道」を日本人の道徳と捉え、明治時代32年、英文で『BUSIDOU、Soul of Japan』が刊行され、日露戦争勝利で日本が注目を浴びる中、関心を呼び西欧各国で出版され、「武士道」が世界に広く知れ渡ったのです。
前回のブログで「克己」の言葉に触れましたが、新渡戸稲造はそれを次のように説明していました。
「・・・・・克己の理想とするところは、心の平静を保つことである。さて、克己の極地は、切腹がこれを明白にするであろう。・・・・・・」
私が好んでカラオケで唄う歌に「まず、一献」があります。
その一節に
嵐の中でも時が経つ
艱難 汝 玉にする
男は己に克つ者よ
君盃を上げたまえ
いざ我が友よまず一献
「克己」が詠まれています。
「大和魂」はどうでしょう。
以前、「修身とは」と題しブログを書くに当たり、小学校の先生に修身の授業について教わった時、戦後修身の授業が廃止された理由に「アメリカの占領政策は、大和魂を壊すことに重点が置かれた。」と説明されました。
この事から、先生らの生きた時代では修身に説かれた内容がそれにあたり、日本人の精神、心と考えられます。
明治40年生まれの合気道師範が書かれた教本には、下記のように書かれていました。
「・・・・その根源は何処にあるかと追求すれば「大和心」ということになる。これは「やまとこころ」と読むのが普通であるが、「いやあまたごころ」の転化である。いやあまた(非常に、多くの人々の)心(真心)である。この「大和心」―――いやあまたの共感としての真心―――これこそが日本精神文化の華たる「武士道」なのである。したがって武人の特質でもなければ専有物でもない・・・」
違いは無く、同じものと外国人には説明したほうがよさそうです。
彼等にしてみれば、「武士道」「大和魂」の言葉の違いから違うものと思ったのではないでしょうか。
その精神の発現の例として、商人でも47人の義士を庇って一家全員酷刑を受けて屈しなかった天野屋利兵衛がいる。
忠臣蔵の科白が泣かせます。「天野屋利兵衛、男でござる」
女性ながらも維新の志士を多く庇護した疑いで投獄され、拷問を受けながらも所信を貫き通した野村東望尼、三条大橋の上で颯爽たる征討大参謀西郷隆盛の馬前に駆け寄って「討つ人も、討たるる人も心せよ、同じ御国の御民ならずや」の一首を差し出して大西郷に最敬礼させた太田垣蓮月尼の女性もいる。
階級、男、女に関係なく武士道精神が現れています。
弟子も、幅広く交際してきて、感じるところがあり、日本人として美徳としてきた精神が失われた昨今に憂いを持つようになったのでしょう。
私より、16歳下になります。
それなりの年になり、自分の価値観を造りつつ、半生を生きてきた結果、「武士道」なるものに辿り着いたのでしょう。
彼も自分のブログに書いていました。
日本人が利己的になっていると。
戦後から始まった自由、平等のはき違いにあることは間違いないと思います。
顕著な一例は、モンスターペアレンツなる人種の出現です。
自分のことは省みず、先生に勝手なクレームを付ける輩、利己的、自己中心的振る舞いは教育現場を混乱させています。
私らの世代の親と違い先生を敬わず、自分勝手の言い分を通すようです。
アメリカのプロゴルファー、タイガーウッズの不倫騒動がテレビで幾度か報道していました。
私が驚いたのは、不倫相手の中に謝罪と慰謝料を要求した女性がいたことです。自分のことは棚にあげてです。「お前、同罪だろう」と言いたくなりました。
日本のモンスターペアレンツと全く同じ、いや! 日本人がアメリカ人の考え方に似てきたのでしょう。
これまでの記述は、私自身が得た知識からの見解ですが、戦前に成人された方の考えも聞いてみようと思い、小学校の先生にお電話をしてお聞きしました。
ブログを書くにあたり何度かお電話しています。
お電話で、挨拶を済ませ聞きました。
「先生、武士道から感じる印象はどんなものでしょうか」と。
先生、当時の体験から「薙刀の教練がありましたが、具体的な印象はありませんが」と
話され、思い出されたのでしょう、次のような事柄を話されてくださいました。
何事にも、礼儀、礼節、作法を弁える仁義(道徳上守るべき筋道の意)の大切さ。
侍は「廉恥(心が清らかで、恥を知る心が強いこと)」を知ること。
君辱められれば、臣死す。
「義」を重んじ、「恥を知る」。
などのお言葉を教えていただきました。
「武士に限らず、人として大事なことですね。」とのお言葉でした。
私が質問した言葉で「言行一致とは、侍は発した言葉に責任をもつという意識があり、それで無駄口を言わず、寡黙になったのでしょうか。」と。
「そうかもしれませんね」とご返答を頂きました。
先生、定年前に教職を離れています。
その理由の一つに、教育現場で自分が学んだ教師像、教育のあり方がそぐわなくなり、身を引いたとの事でした。
従来の教育方法より、フレンドリーな接し方、実質主義的な方法論が進歩的と考えられるようになったのが原因のように私は感じています。
先生、教育現場が今のような状況にになるのは、予見していたそうです。
師範学校で教員としての専門教育を受けた方々の心境をあらわす短歌を紹介します。
「小会議」
スト参加統一はかる小会議
心ゆれつつ吾は黙せり
ためらわず児ら待つ職場へ還りたり
スト決行の集い離れて
参加あり不参加ありしストの後
会えば互みに寡黙となりぬ
<歌集 浜木綿> より
教師が週休2日を望み、ゆとり教育といいながら、児らを思う心を忘れたのでしょう。
先生、世代的な特徴を「私は昭和っ子ですから」とも言われました。
私より20歳ほど年が上です、昭和の御世と同じ時を過ごされた世代です。
私が、教育のことにも触れ、小学校時代の思い出を話しました。
当時の校長先生から言われた話として、
「下校時、国旗が降ろされる時に出会ったら、国旗に正対し気を付けしなさいと」言われたことを話すと、
国旗の上げ下ろしの説明をしてくださいました。
「上げる時は、国旗掲揚、おろす時は、国旗降納と言い、その時は他の動作を止め、国旗に向かい礼をするのですよ。」と。
私の小学校時代、国旗に対しての振る舞いは教わりましたが、今教育現場で国旗を揚げる、揚げないで揉めている事をお話しすると先生が教職についていた時の経験談を話してくれました。
「今の先生は、自ら品格を貶め生徒に対し友達感覚で接していますが、本当は訓育といって知識を教えるだけでなく、教師の人格が反映されなければ教育になりません。知識を教えるだけなら本を読むだけで済む話、従って、先生は人格を磨くことを忘れてはいけないの。今の先生、教育事務屋になっています。」と言っておられました。
国の源は、「教育」にあるのですから、もう一度、日本民族の原点を見直し、この現状を立て直してくれる政治家の出現を期待したいです
参考文献
「新渡戸稲造と武士道」 著者 須知徳平 出版 青磁社
「技法 日本傳柔術」 著者 望月 稔 出版 講談社
「国語力が低下」で書いた通りかどうか知るため、30代前半の方にこのブログを読んでもらい、読めなかったのが太文字の漢字です。
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