事の発端は敗戦の弁から始まりました。
「こんな試合にしかならないのは、監督の力が足りないということ。もう野球をやめたいし、死にたい。腹を切りたい」「21世枠に負けたことは末代の恥です。」<新聞記事より>
新聞、テレビの報道は失礼な、侮辱的な発言と報じていた。
更に、新聞などでは「衝撃発言は波紋を呼び」と書きつつ、23日の謝罪会見を報じた。
「負けたら恥ずかしいと正直思っていた。生徒に勝たせてあげられなくて、情けなくて、自分に嫌になって、相手をほめる前に負けたことを恥かしく思い『死にたい』とか言ってしまった」と発言の真意を説明したうえで、「野球をやめたい、この場から逃げたい。負けた直後はそれくらいの気持ちがした。・・・・・」<新聞記事より>
謝罪会見で素直に気持ちを話したことが、逆効果になって、
高校への抗議さらに多くなり、学校側も無視できなくなった結果、無期限の自宅謹慎を命じた。
この時点では、学校側は辞めさせる考えはなかったようだ。
しかし、学校への抗議が多くあり、25日辞任することとなってしまいました。
私はこの一連の流れで、辞任に追い込まれたことが何か釈然としない思いが残りました。
バンクークーバーオリンピックのスノーボード選手の「腰パンファッション」が、やはり抗議の対象となってマスコミが騒ぎました。この一件は「礼儀知らず」と釈然としたのですが、この騒動に何かおかしいと感じるのです。
見方を変えてみれば、正直に思いを吐露した監督の発言から勝負への執念を感じられ、高校野球一筋に人生を送ってきたことが見て取れます。
高校野球監督として、地方予選を勝ち抜き、生徒を甲子園に連れて行くことが出来、更に「優勝を」とも思っていたことでしょう。
それが初戦で負けたのですから。その心中を察するに相当悔しかったと思います。
報道では、「衝撃発言」と言葉尻を捉えるような記述をしていますが、そんな背景を思慮すれば本人の思いも分かりそうなものと思うのですが。
辞任が決まった時、生徒の大半は涙したと報じていました。
野球を通じて、心を通わし目的に向かって、いかに苦しくも厳しい練習をしていたかも想像がつきます。
もう一つの理由に、相手高校の監督、生徒がその発言をどう感じたか、どう受け止めたか報じていないからです。もう一方の立場の人たちがどう思ったか、感じたのか報道しなければ聞き手側にしてみれば、判断が偏向します。高校野球の監督という同じ立場、その発言に誇張された面も感じるでしょうがその真意は理解していると思うのですが。
相撲で言えば、横綱に勝って金星を上げた様なものです。
インタビューに答えて、「強豪を相手にし、戦い良く勝った、生徒を褒めたい」位のコメントは言っているのではないでしょうか。
生徒も同様で、甲子園で勝てた事を喜々と感じているはずですし、その発言を聞き、その嬉しさは増幅したとも想像します。
もっと云えば、勝負事ですから、闘争心もあり内心「ザマー見ろ」と思っているかもしれません。
どちらにしろ、報道が一方的な見方でバランスを欠いているように感じます。
報道のニュアンスから悪者扱いしているような気がしてならないのです。
しまいには服装まで触れ、「”ド派手監督”」などを揶揄するような記述もありました。
同校に連日抗議の電話が数百件単位で殺到、ホームページもアクセス過多となりといった状況が生まれたのも報道の仕方が影響していると思います。
抗議した方々、どのような判断でしたか想像の域を出ませんが冷静に対処しているとは思えない側面もあり、皮相的な面で動く傾向があることは否めません。
監督の発言だけで、彼のすべてがわかるはずもないのです。
一方的な報道で、似たような事件があったことを思い出します。
ブログ「ある新聞記事を読んで」で取り上げました。
中山国交大臣が日教組を批判した時のメディアの対応です。
「中山国交大臣の問題提起した発言の表現(用いた言葉が良くない)だけに注視し失言と決めつけ、見識者といわれる御仁のコメントを掲載するだけで終わりにしてしまいました。
私から見れば、中山大臣の発言の中で、教育の根幹的問題の提言もありましたから、これから更に論争されるべきと感じていました。
しかし、それっきり、何かがおかしい。」<ブログより>
大臣はある考えがあっての発言と思えるのです。それを失言と決めつけるならその根拠を示すのが筋と考えます。
要は「言葉狩り」、「言葉尻を捉えて」の批判に感じたのです。
実際、身近に出る教育問題、今の教育を良いという人は見かけません。
テレビ報道で毎日のように、殺人事件、子供の虐待、子供殺しを見聞きしていれば、教育に問題ありと誰でも思うのではないでしょうか。
教育は国の根本です。それが議論されず表現がどうのこうのでおしまいです。
やはり、いろいろと見解、意見があるはずです。バランスよく報道して欲しいと感じたのです。
もう一つは、抗議という行為です。
連日、数百件の抗議の電話があったと報じています。1000件はゆうに越えたのでしょう。
問題は、抗議の仕方、匿名か、姓名を名乗っての抗議かで、ある意味質を考慮すべきだし、真に考えての抗議であれば姓名を名乗っていると思います。精査しどちらの割合が多いか、抗議内容の意図はなど、吟味し学校側は対処すべきだったと考えます。どうも数が多いからとの判断で辞任を決めたように思えてならないのです。
監督、生徒達の人生がかかわっている事柄です。じっくり時間をかけて決めても良かったと思います。
例えば、抗議の電話、匿名が多ければ無視しろとまでは言いませんが、考慮から除外してもいいのでは、からかい半分の抗議もあるかも知れません。抗議行動の責任を思えば、人生を左右させることにも繋がるのですから、名乗って当たり前です。
ちゃんと名乗った方々の抗議内容に耳を傾け真摯に受け止め、精査、吟味し、監督にその内容を伝え厳重注意しましたと報道を通じて、抗議した方々に伝えれば納得するはずです。
辞任は行き過ぎです。
一呼吸置いて対応しておけばよかったのでは、今回の対応、短絡的感が否めません。
私に言わせれば、高校という職場を共にしている仲間なのに。
罪を犯してはいないのです。
庇う行動に出て、なんらかの批判をされるかもしれませんが、校長にはそのような行動をとって欲しかったと思います。
ある週刊誌では、彼を一途な人、硬骨漢と取材した記事を読みました
人柄は、一面だけでは推し量れません。
このような事を話すのは、ある経験をしたからです。
以前ブログ「ある新聞記事を読んで」でその経験を取り上げました。
居合の道場で知り合った方が、新聞記事に取り上げられ、それがもとで辞職に追い込まれたのです。
当事者を知る私は、記事の内容にギャップを感じて怒りを感じていました。
居合い仲間もその新聞社支局に抗議し、私も姓名を告げて行いました。
しかし、彼の上司は記事に成ってしまった事だけで、詳しく事件の事実関係を調べもせず、「立場上あるまじき事」とコメントし辞任させました。
この時、その上司、マスコミに対しよく調査してから処分を考えますと対応しても良かったのにと思ったのです。
これにより、優れた人材を失う結果になったのです。
なぜ、このように言うかと言えば、今後も起こりうる事柄と想像できるからです。抗議が殺到したという理由だけでその人が処罰されれば、ある意味人権無視になるのではないでしょうか。
聞き手側には、客観性をもてるだけの情報がある程度提供されていれば良いのですが、今回の報道片手落ちの様な気がしてならないのです。
言い方、発言がおかしいと取り上げて報道し、抗議殺到という図式になって発言した人が追いやられることがパターン化するのを恐れます。
こんな皮相的な形(本音を吐露した表現が良くない)で報道することで、ある意味中世ヨーロッパの魔女狩りと同じになってしまうのではと危惧します。
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