政治家の卑しい振る舞い!

安倍元首相の国葬儀当り、欠席、出席で騒ぐ政治家の立ち振る舞いに何か「淋しい」思いがすると同時に、「卑しさ」を感じます。
野党の政治家、自身が国政に身を置いて国の為になる事は何かを考えれば、諸外国とのお付合い、即ち「外交」、国の安全確保即ち「国防」、豊かな(もの、心)暮らし即ち、「経済成長(五穀豊穣)」をどう実現するかが政治家として求められる行動規範(能力)になるのでは!?。
その実現のため、政治体制は資本主義、共産主義、そして亜流には独裁主義に分かれている国際社会の中で、日本を自由主義体制の中でどう導いたかを素直に評価すべきなのに、イデオロギーなる義眼を嵌めてみるものだから大騒ぎになり、海外から失笑を買う羽目になる。
安倍元首相の国葬儀にたいして、政治家がとった態度が見苦しい(卑しい)、政治を確りと行った功績を残した人に対する所業ではない。

一庶民(私)でもそう感じていたら、産経新聞社説「産経抄」のその有様を批判する記事が載っていた。

「起」の部では、藤沢周平の「春秋山伏記」での因習の「村八分」を引用し、のけ者にしても葬儀、火災は助け合う精神を紹介し、次のようにまとめていた。
・・・葬儀は手伝い参列する理由は、感染症対策で素早く遺体を処理するためだとも、生者は死者を裁けないからだともされる・・・
死者に鞭打つ所業が忌避されていたのはこのような考えからでしょう。
それがだ、「起」から「承」となり、
・・・立憲民主党の野田佳彦元首相が出席との考えを表明すると党内で批判で出ている事を・・・たしなめている表現に。
これなど、左巻き政党、人権、表現の自由と声高に言うくせに、「弔い」をしたいと希望する者に対して人権無視、左翼主義に見られる抑圧などが戦後共産主義が暴れまわった所業を思い出します。
中国の共産主義社会を思い起こさせます。
「転」じて、立憲民主党の政治に振る舞いに苦言を呈しています。
・・・国葬の案内状をSNSの投稿しては、欠席を強調する議員も複数いた。人の死や遺族の心情をどう考えているのか・・・
この点です。
私は卑しく感じた記述は、日本人として日本国に住む資格すらないと思えるのです。
時代が移ろい行く中で、変えて行かなければならない事柄が必要に応じて出てくるでしょうが、長い間に培われて慣習を大事にすべきと思うのです。

人の死に際し「はしゃぎ」は社会的に許されません。
国会議員の振る舞いとはかけ離れた所業、「恥さらし」「世間の笑いもの」との規範がないようです。

「結」では、
・・・各国の在京大使館に反対派から国葬不参加を求める手紙が送られたとか・・・
此処ここに至っては、良識、見識は皆無、「人格」を疑われる所業、なんでこんな人を選ぶ選挙民が居るのかと悲しくなります。

国際社会に恥をさらし、笑いものになる議員がいる事を、われわれ日本国国民は猛省しないといけません、と思う………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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