戦後生まれの世代、私の記憶では中学校の社会科で日本の憲法は「平和憲法」と教わった記憶があります。
戦争で敗戦し、その反省から作られたものと理解していました。
後に、それはすべて占領軍の手で立憲されたものと知ることに。
明確に認識したのはいつだったかな~!
成人した後の事か?
若い頃はそのような事に深く関心を抱く訳もないし。
ただ記憶にあることは「安保闘争」で軍事問題として取り上げられ、世情は騒然としていた事を記憶している。
※安保闘争(あんぽとうそう)は、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり日本で行われた日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民及び批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動である。自由民主党など政権側からは「安保騒動」[1]とも呼ばれる。ウキぺデイアより。
※ 国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった。・・・「この闘争の最中、東京大学文学部の学生だった樺美智子(かんばみちこ)が機動隊とのもみ合いの最中に死亡し、象徴的事件となった。 安保闘争後、ブントは四分五裂、全学連・・・」ネット記事より。
何故、記憶にしっかりと刻まれたかと言うと、従兄(高校1年生)中学生の私にデモに参加しようと誘ったこと、そして前述したように死亡事件が起きた事が強い印象として残ったのです。
それほど「安保反対」と気運が高まったからでした。
参加人数の多さからも想像が付きます。
こんな機運があって、日本国民、国防・軍備に関して消極的な姿勢が育まれていったのです。
その背景には左翼系進歩的文化人の発言(メディアが支えて)、野党の政策方針と、占領軍のプロパガンダが国民に影響を与えていた。
がしかし、ここに来て2月24日、「ロシアのウクライナ侵略」戦争は未だ継続中、このことが日本国民に大きな衝撃を与えた。
20世紀の覇権主義、帝国主義を実行した国が現れたのです。
日本国周辺では、隣国が尖閣諸島への領海侵犯、さらに一方では核保有を目指す国など危機的な状況に囲まれている。
これを受け、今までの国防方針で国が守れるかと見直す機運が起きてきたのです。
それには憲法改正との論調が主流を占めているようですが、独立国家としてそれでいいのかと疑問視されている面もあるのです。
石原慎太郎氏は「自主憲法」と主張していました。
もしも、ロシアがその侵略で勝利した時は、国際社会では再び覇権主義、帝国主義が復活することは想像されます。
※日本国憲法 第9条(にほんこく(にっぽんこく)けんぽう だい9じょう)は、日本国憲法の条文の一つ。憲法前文とともに三大原則の一つである平和主義を規定しており、この条文だけで憲法の第2章「戦争の放棄」を構成する。この条文は、憲法第9条第1項の内容である「戦争の放棄」、憲法第9条第2項前段の内容である「戦力の不保持」、憲法第9条第2項後段の内容である「交戦権の否認」の3つの規範的要素から構成されている[1]
ウキペディアより。
安保闘争(昭和35年)の翌年に、次の書籍が出版されていた。
真の独立国家として自主憲法の制定を訴えた。
著者は次のように警告しています。
「・・・なかんずく、法治国とか、民主主義とかいいながら、万法の基礎であり、国家組織の大本である憲法を、敵軍が我が国の崩壊を策し、占領中、武力を背景とし、制定せしめたものを、未だそのまま放置していることが、日本国民の独立精神を傷つけ、法律制度の確立を妨げ、道徳も、教育も軽視されている根本原因ではないだろうか・・・」著書より。
「道徳も、教育も軽視されている根本原因・・・」一文に、戦後の歪みを観る思いです。
私、立憲はその国の文化・歴史・精神が反映されてこそ意義あるものと考えます。
良し悪しは別として、
アメリカでは建国の歴史が憲法に反映されている例があります。
「銃があるから危ない」とは考えず「銃を多く所持する程、安全が守られる」と主張する銃擁護派が、銃規制に歯止めをかけている。そして強く主張するのは合衆国憲法修正第2条の銃を持つ権利である。1776年にイギリスからの独立を勝ち取ったのは、民兵が武器を持って勇敢に戦った結果であり、さらに開拓時代には銃で荒野の外敵と戦ってきたという、これら建国の精神が銃擁護派の骨の髄まで染み込んでいる。」記事より。
簡単に言えば、母国を捨て生計を立てるためにアメリカ大陸に移住し先住民を追い払い土地を奪った結果、奪い返されないよう守るためには必需品だったのでしょう。
そのまま憲法に反映されています。
著者はサンフランシスコ講和条約で発効した時に日本国本来の帝国憲法に戻すべきだったと言っていました。
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