終戦記念日にあたり–パール博士の日本無罪論–

2013081110470001.jpgこの本、19年前銀行の支店長から頂いたもの。それまでは存在を知りませんでした。

支店長とは月一回の訪問の折、懇談して勉強させていただきました。

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この本から学んだこと、「戦争は負けてはならぬ」、そし明治維新以降敗戦までの歴史、日本人の手でその歴史を総括しなければと強く感じています。

東京裁判史観の払拭かな。

マッカーサーの占領政策の主眼、4等国に貶める事でした。

彼が最も恐れた日本人の精神力、それは武士道精神でした。

彼がやった事、武道禁止で十分わかります。

柔道をスポーツと言って占領軍に取り入ったのが講道館、今その体質がここに来て問われています。

しかし、大日本武徳会で標榜した精神を理解する人材はいるでしょうか。

本書の展開はここから始まっていました。

「日本には昔から”勝てば官軍、負ければ賊軍”ということわざがある。東洋的諦観とともに、これほど、正義を冒涜し、法の精神をむししたことばがない。と同時に、これはすこぶる危険な思想である。どんなに悪虐非道な手段にうったえても、勝ちさえすればいい、勝てば官軍で、権力の座につき、自己の不正はをおおい、真実さえも曲げて、白を黒といいふくめることも、時には歴史を書きかえる事さえできる。だが、負けたが最後、どんな非道な仕打ちをされてもやむを得ないという諦観、これが当然のこととして、なんら奇異とも理不尽とも思われずに、日本人の思念の中に共通しているということは、実におそろしいことであり、悲しいことである。戦争の勝敗は時の運で、正不正は勝敗の外にあるはずだ。敗れたがゆえに罪悪なのではない、勝ったがゆえに正義でもない。”法は一つ”である。この一つに照らして、これに添うものは正義であり、これに背くものは不正である。すなわち戦争の正、不正は、すべて国際法学の理論の中だけ存在しているはずである。はじめに東京裁判も、国際法にのっとてさばくのだとしきりに宣伝していた。ところが、これまでの国際法には、戦争そのものを犯罪とするような規定はどこにもない。戦争そのもは法の領域外におかれているのである。まして戦争を計画し、準備し、遂行したというカドで、個人がさばかれるというような規律はどこにも存在していない。ただ戦争遂行の方法だけに、法的規律が存在するのみである。そこで連合国は、東京裁判を行うために、新たに「裁判所条例」(チャーター)なるものをつくって、戦争犯罪を定義し、これをさばく権能を付与し、これによって日本の指導者をさばいたのである。「法律のないところに犯罪はなく、法律のないところに刑罰はない」これは法治社会の初歩的な原則である・・・」

この記述を読んだ時、そうなんだ!と、本題の意義をすぐに理解した。

日本憲法失効論の中に東條英機、他6名を絞首刑にしたことを暴挙と非難していた意味も納得です。

当時の有識者からみれば理不尽な行為と映っていたのでしょうに!

私の場合、一般市民を巻き込んだ攻撃をしたアメリカは「どうなんだ」と引っ掛かるものがありました。

戦後、強権を揮っていた占領軍の横暴さは多方面に出ていたことでしょう。

参考文献

パール博士の日本無罪論 田中正明著 慧文社

 

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