6日から12日迄風邪で寝込み、体調がすぐれないので川越第二工場近くの取引先一軒だけでもと1/17に新年あいさつに向かいました。
例年は営業の方と挨拶をするだけでしたが、社長(私)より年上の人がいますよと紹介され名刺交換をすると社長さんでした。
名刺の名前、忠佳をただよしと読みとよく読めましたねと褒められ、ではわたしの名はと話しかけると恒睴をつねてると読んだので「つねあき」と読むと教えました。
昭和21年、オヤジは姓名判断の先生に頼み¥3000を払い名付けてもらった名前と由来を説明。
当時の貨幣価値を知るために、ニコヨンの日当の話をしました。
昭和23年当時で¥240、かなりの高額だねと社長、営業が納得していました。
社長さんが言うには「ニコヨン」なる言葉を知っている者は少なくなっていると!
そうですね、戦後の間もない頃の話ですからと返事をする。
当時の話題で「地下鉄丸の内線」の思い出話をしました。
その頃は、私の家、飯田町2丁目、飯田橋駅東口付近で文房具屋をしていました、
家の物干し台から丸の内線が茗荷谷から後楽園へ向かう途中地上を走るのを望む事が出来ました。
この話を受けて、社長さんは利用して居た事があるようで、一駅一駅路線が伸びる分だけで営業していたらしく、淡路町まで伸びたと記憶を語っていました。
私が都電で志村橋から九段上まで通学(昭和31年から32年まで)して居た事を話すと、社長さんも都電を利用していたらしく、懐かしそうに運賃の話に触れて「往復運賃が¥25」となり、それは当時定食の値段が¥30、それと比較すると高いというわけです。
余談ですが、社長さん講道館が水道橋にあった事、後楽園では木下サーカスが開催されていた事も知っていましたので、親近感がわきました。
様々の話題に触れ、思い出を話を続けている中、互いに会社の創業当時の話に及び、
創業以前は、戦後10年程親父が文房具屋をやっていた話に触れ、開業前に、オヤジが露天商をやってタイガー紙(辞書に使われる薄い紙)を上野の松坂屋の前で売っていた話から「モク拾い」話に繋がっていたのです。
ネット記事より。
なぜ売れたか、その紙が紙巻き煙草に向いていたようです。
今振り返れば物が不足している時代、煙草も高く贅沢品、煙草の吸殻をほぐして、また吸うために使っていたと思われます。
当時、吸殻を拾う人がいました。
棒の先端に釘、もしくは針を付け路上に落ちている吸殻を拾うのです。
私等、そんな人を「モク拾い」と呼んでいたと思います。
吸殻をばらして煙草を再生。
ネット記事より。
これが生業になって居た事を知ったのが、会社のスタッフに思い出話として数年前にその事を語ると、浅草生まれの彼、地元に「モク拾い」から吸殻を買い上げそれで煙草を再生した商いがあったというのです。
戦後、昭和20、30年代はまだまだ貧しかった日本です。
このブログを書いている最中に新年の挨拶に来られたボイラー販売会社の専務さんに「モク拾い」を話すと、子供の頃世田谷三軒茶屋に住んでいてよく見かけたというのです。
彼私より三つ下、当時東京のあちこちで見掛けられた風景だったのでしょう。
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