昭和歌謡番組 藤山一郎 東海林太郎 特集を聴いて。

12日の夜、チャンネルを回している最中にこの番組に出くわしました。

歌唱方法など奄美民謡を稽古している私にとって、興味を惹かれ見ることに!

藤山一郎、昭和40年代、懐メロ特集には必ず取り上げられていたと記憶にあります。彼のデビュー当時の映画を紹介しながら、経歴を紹介していました。

当時から耳にしていた彼の歌唱の特徴は、日本語が綺麗に発音され、歌唱力は優れていると聞き及んでいたので、そんなもんかと改めて、

今まで民謡で培った歌唱方法の知識と擦り合わせながらの鑑賞となりました。「息」の安定性、そして声帯から発生する歌声、耳に届く音質など、今、私が課題としている内容を思い浮かべながら聴き比べました。

当然ながら、技量には雲泥の差はありますが、本格派の歌手である唄いっぷりを聞くことはとても参考になります。

分野は違いますが、歌声を発する作業は同じ。

強弱、抑揚など調べに通じる点に関心が自ずから向いていきます。

当たり前ですが、やはりプロの歌手なんですね。

奄美民謡を習うことで歌唱に於いて、多少は技量がわかるようになりました。

番組では彼の経歴を紹介していました。

ネット記事によると、

「藤山 一郎(ふじやま いちろう、1911年(明治44年)4月8日 – 1993年(平成5年)8月21日)は、日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍した。東京府東京市日本橋区蛎殻町(現東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)卒業(首席)。

東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』などを歌い多くがヒットした。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ[1]、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された[2]。1992年(平成4年)、国民栄誉賞を受賞」ウキペディアより。

何故歌手になったかと言えば、実家の稼業繊維問屋が傾いて金を稼ぐ必要があったとか!

25歳の頃の映画が紹介されていましたが、育ちの良さを感じる好青年でした。

彼が師事した歌手が、二村定一、大正時代のジャズ歌手とか。

「下関の料亭「海月」の経営者・二村貞衛と、義太夫芸妓・林トキの子として生まれる。トキは貞衛の愛人であり、貞衛には正妻との間に長男がいる。貞一は生後間もなく二村家に入籍して次男となる。少年時代に邦楽に親しみ、長じて洋楽に興味を持つようになる。1915年に大阪薬学校に入学するも、宝塚歌劇団に傾倒し、中退した後に下関に一時帰郷する。帰郷後は、裁判所の書記や銀行の事務員をしていた。1917年に、下関に浅草オペラが来演。入門を志願するがこの時は断られてしまう。」ウキペディアより。

藤山一郎が可愛がられた理由の一つに、音大出、譜面を観て初見で何でもピアノを弾けたからだそうです。羨ましいね。

私なんぞは、採譜されているサンシン用の譜面、何度も何度も繰り返さないと弾けないもんね。

古賀政男のコンビでスターになる素質は音大で学んだ技術に裏打ちされていた訳だ。

記憶に残る歌として、「東京ラプソディ」「青い山脈」「長崎の鐘」かな!?

「青い山脈」などは当時の若者に歌われていました。

映画も記憶にあります。

「監督は今井正、主演は原節子、池部良。正続2編(正篇7月19日公開、続篇7月26日公開)。モノクロ、スタンダード。東宝と松竹が映画化権を争い、松竹が木下惠介監督を提示したことから東宝側は負けるのを覚悟したが最終的には東宝が映画化権を獲得。途中に東宝争議があり、プロデューサーの藤本真澄は東宝を退社して藤本プロを設立する。この時期機能が麻痺していた東宝では各プロデューサーの独立プロにスタジオを貸す方式をとっており、本作は藤本プロと東宝の共同作品となる。 東宝からの製作協力者として代田謙三、井手俊郎らが当り、当初小国英雄が脚本を執筆したが、監督の今井正と意見が対立し降板したため代わりに井手俊郎が執筆。井手の脚本家デビュー作となる。以降のリメイク作品のほとんどは、この井手脚本が元になっている。また服部良一の主題歌も今井正監督が好まなかったにもかかわらず、国民的愛唱歌になるほどヒットし、以降のリメイク作品にも使用された。ロケ地は静岡県下田市他。打ち上げ花火やカモメなどの描写にアニメーションが用いられ、前年に東宝を退社した鷺巣富雄が作画を担当した。」ウキペディアより。

高校生役の女優「杉葉子」が印象的です。

そして、東海林太郎、燕尾服に直立不動で歌う歌手として印象深く記憶にあります。

「名月赤城山」「野崎小唄」「国境の町」「麦と兵隊」など記憶にあります。

東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 – 1972年(昭和47年)10月4日)は、日本の歌手。ロイド眼鏡・燕尾服を着用し直立不動の姿勢で歌うという特徴があった。1965年、紫綬褒章受章。秋田県秋田市台所町二番地に生まれた。1908年、父大象が秋田県庁を辞職。南満州鉄道株式会社に入社。両親は満州へ。東海林は祖母カツの下で生活する。秋田中学時代にヴァイオリンに魅せられ、満州にいる父に懇願するが逆鱗にふれ断念[要検証 ]。秋田県立秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)を卒業。東京に上京し国民英学校に学び、早稲田大学商学部予科に入学する。卒業間際に庄司久子と結婚した。佐野学に研究科でマルクス経済学を学ぶ。研究科修了後、1923年9月南満州鉄道株式会社に入社、庶務部調査課に勤務。「満州に於ける産業組合」を脱稿するが、あまりにも左翼的ということにより、1927年鉄嶺の図書館に左遷される。音楽の夢が捨てきれず、満鉄には7年間勤務したが、その後、退社して帰国。弟三郎と早稲田鶴巻町で中華料理店を経営。」ウキペディアより。

唄のジャンルとしては、藤山一郎の対極にある、純日本的な歌謡。

  • がしかし、全国的な認知度でいえば歌謡の特徴により、藤山一郎より広く知られているのではないでしょうか?

麦と兵隊」などは部活の一端、合宿の打ち上げコンパでは歌われていました。

ちなみに「梅と兵隊」という軍歌もあります。

30年以上前になりますか、取引先の常務がカラオケで歌っていたのでそのとき知りました。

もう、カラオケで軍歌を唄う人がいなくなりましたね。

私等は今でも母親の影響で軍歌が好きですが。

九段の母」などなど偶に歌うことがあります。

東海林太郎、71歳時のインタビューに答えて、これからはやりたかったクラッシクの勉強に取組80歳までにと抱負を語っていましたが、本当に歌を愛された方だと感じ入りました。

確か、大腸がんを患い、腹圧を維持するためにさらしを強く巻いて歌っていたと聞きましたが、調べると記憶に間違いがないようです。

この話を聞いた時、田谷力三、東海林太郎など本格的な歌手は腹筋の強さが必要と感じたものです。

「50代以上の年配の方には、懐メロ番組に出演し、燕尾服を着て直立不動で歌う東海林太郎(1898年生-1972年没)の姿を記憶に留めている方が多いと思います。その頃(1960年以降)の東海林太郎は、1948年に見つかった大腸癌により人工肛門をつけており、衣装を身につける際には晒をきつく巻き、薬の副作用で悪くなった顔色を化粧でごまかしてステージに上がっていたと言います。」ネット記事より。

両名早慶のライバル同士、年は離れていましたが、歌でもよきライバルだったのでしょう。

東海林太郎、藤山一郎両名声楽を究め、歌手としての本格的な技量を持ち合わせての流行歌手、奄美民謡を習っている私にとっては勉強となる番組でした。

 

 

 

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