渋谷暴動事件の一端に遭う。

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1月17、8日だったか、新聞を読んでいると渋谷駅近辺で起きた、左翼暴力学生暴動事件に関する記事が載っていました。 当時、宇田川町近辺にある会社に勤務していたのでこの事件を覚えていたのです。 その日、勤務の為野次馬として現場には行けませんでしたが、警視庁機動隊と応援に来ていた新潟県警の機動隊が鎮圧にあたっていると聞き及んでいました。

この暴動で、新潟県警の機動隊員が2、3名火炎瓶で焼かれたと記憶にあったのですが記事を読んでみると、次の記述となっていました。

「     ・・・渋谷暴動事件は昭和46年11月14日に発生。沖縄返還協定の批准阻止を訴える中核派などのデモ隊が、渋谷駅周辺で機動隊員や派出所を襲撃し、新潟県警から応援派遣されていた中村恒雄巡査=当時(21)=が火炎瓶を投げつけられ、大やけどを負い死亡した。・・・」ネット記事より。

この記事を読み、記憶違いと分かりましたが、焼死した隊員がいた事は間違いありません。

この頃、昭和40年代になると共産主義、社会主義に傾倒する学生が出てきて、大学自治会に入り込み彼らのオルグ活動により賛同する学生も増え、反権力運動がおこり大学紛争へと発展していきました、

一番大きく報じられたのは東大安田講堂籠城事件でしょう。

でもその頃は、各大学でも学園封鎖による授業妨害が彼らの手で起きていました。

私の母校でも同じでしたが、その妨害行為を排除しようと一般学生が立ち上がり左翼の暴力学生を排除することに成功してからは、他の学部も続き沈静化に向いました。

そんな暴力学生の終焉が浅間山荘事件で、それ以降大きな事件は起きなくなりましたが、今でも思想的に先鋭化した思想集団が存在しています。

渋谷の暴動に鎮圧にあった新潟県警、警視庁機動隊と違い経験不足が、死亡者を出す結果になったと感じたものです。

彼等の考えの根底に有るの革命を起こすためなら暴力、殺人も厭わないという考え、実際、彼らの武器になったのがゲバ棒と呼ばれた角材、樫の棒、鉄パイプ、それも先端に5寸釘を装着し槍のように、そして石、硫酸、塩酸、火炎瓶、その頃のデモ、暴動鎮圧で機動隊が火炎瓶で命を落としていました。

その渋谷暴動の時も、会社の診療所に硫酸を頭から浴びせられた隊員が担ぎ込まれ医者が治療最中に「熱いよ!」泣き叫ぶ隊員の声を聴いた記憶があります。

その時、母校で体験した彼らの暴力的な行為を思い出したものです。

思えば記述できないくらいの残虐行為をしていましたから。

浅間山荘事件の内ゲバでは、総括といって殺しもやっていましたね。

それにしてもあれから45年の月日が経っていますが、

この様に反社会的、反国家的行為をする者は出てきます。

安全な国作りの為にも法整備を行ってしっかり取り締まって欲しいものです。

 

 

 

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