私は戦後の生まれ、両親ともに大正の生まれです。
戦前の時代には生きてはいませんが、当然両親が戦前派ですからその頃の社会制度、大日本帝国と呼んでいた日本、皇室を中心とした社会などその頃の時代を両親を通して知っていました。
断片的ですがそんな記憶を辿ってみます。
子供のころ戦前戦後の大きな違いと知った経験は、目白通りをロールスロイスで走り抜ける昭和天皇を目にすることでした。
何時ごろお通りになると町内に御触れがあり、その時刻を見計らいまっていると昭和天皇のお姿を目にすることが出来たのです。
でももっと大きな違い、住民の方々がお出迎えしないこと、戦前は大勢でお出迎えしたのよと、たぶん母から聞かされていたのでしょう。
学校には奉安殿があり、お参りをしたとも聞いていました。
母は、代々の天皇の名を暗誦出来ることが自慢でした。
後に成人となって地方へ行き、戦前の体制の名残か家庭内に掲げられた天皇の写真を目にすることもありました。
「※御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と推測される(小学校の奉安殿建築は1935年頃に活発化)。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。
四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。」
戦前の知識が入ってくる環境がまだあり、戦前の社会制度には関心が行くような自分がいました。
大きく変わった事の一つに教育制度、学制が大きく変わった事、6.3.3制、PTA、などが戦後に出来た事など教えられましたね。
最も大きい違い、教育勅語、修身と言うものが廃止された事が印象深い、私の周りには修身が無くなってと嘆く人がいたような気がします。その事が戦後の教育制度に関心が向くきっかけになりました。
映画の一場面にもありました。
私の叔母が小学校の教員、修身、教育勅語が廃止されたことに不満を持ち、日教組の存在を疎ましく思っていました。
そんな思いを趣味の短歌に心境を吐露しています。
スト参加統一計る小会議
心ゆれつつ吾は黙せり
ためらわず児ら待つ職場へ還りたり
スト決行の集い離れて
参加あり不参加ありしストの後
会えば互みに寡黙となりぬ
手に取る様にその心境がわかる短歌とつくづく感じたものです。
叔母の先生としての自負だ。
他の先生は自らを労働者として聖職の思いを放棄したのだろうな。
今では、教育改革が絶対必要と感じている私がいます。
まずは、教員教育制度だね。
師範学校の復活ですよ!!私の叔母も、小学校の先生は師範學校出身、教員として自負、誇り、矜持がありました。
“でもしか先生”とはわけが違う!!
子供でも一番の関心が軍隊の事に。
特攻隊みたいに決死の覚悟で戦ったのに負けたことに悔しさを感じる子供でした。
戦前の帝国陸軍、海軍と自衛隊の違いに!
多少知恵がつけば、9条が問題となることが分かりますね。
占領政策の洗脳で戦前の軍隊は悪と決めつけられて今日に至っていますが、国防という視点から不備な自衛隊と分かりますが、それでも戦後教育の影響か、集団的自衛権に決断ができない今の日本。おかしいな~!
最近読んだ本から示唆ある記述が、
「・・・占領軍については、さまざま批判があるだろう。しかし、私が受け入れ難いのは、その傲慢な態度だ。ドイツのニュールンベルグ裁判は、イギリスが主導した。そのために。アメリカに出番がなかった。マッカーサーは、単に日本人への復讐や、アジアへの見せしめに加えて、世界へアメリカの正義を発信しようと、「東京裁判」という芝居を上演したのだ・・・」、ヘンリー・S・トークス連合軍戦勝史観の虚妄より、
気付けニッポン、東京裁判という茶番に!
アメリカの悪巧みだったのだ。
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