稽古後の懇親会–東京奄美サンシン会–

東京奄美サンシン会
会主 本田輝峰
会長 藤井富廣
連絡先 090-6176-5071
教室場所 南大塚地域文化創造館
JR大塚駅徒歩5分
稽古日 毎月 第二、第四土曜日
稽古時間 午後1時~5時
月謝 ¥2、000

奄美民謡の稽古後、先生、会長を含めたまに、飲み会をやっていろいろな話題に触れ、
見聞を広めることが出来るのです。
会長は、私より一回り年上、世事一般、また奄美の歴史にも詳しく勉強させてもらっています。
先月の事です。
まじかに迫った発表会の打ち合わせを済ませた後、
誘い合っていつもの居酒屋へ。
ご苦労様と乾杯を済ませ、雑談が始まります。

 

ひょんな切っ掛けで、奄美群島本土復帰話が出ました。
ある人が、本土復帰の歌があり、
彼はそんな歌があることを知らなかったと言うのです。
私は、なんかのビデオでその歌の合唱を聞いた記憶がありましたが、
はっきりしません。
言い出した方は、発表会で歌ったでしょうと言うのですが、私は記憶にないと答えました。
題名「日本復帰の歌」だそうです。

題名で検索するとYou Tubeで聴くことが出来ます。

 

私の手元には父が買った復帰40周年のビデオがあります。
昭和28年(1953年)12月25日に復帰を果たしていますから、1993年が40周年です。
11月7日、記念イベントとして、式典、芸能祭を渋谷公会堂で開催しています。
芸能祭には、有名な唄者が参加、
中野律記、築地俊造、当原ミツヨ、坪山豊、武下和平、知名定男&ネーネーズなど。

 

当時は民謡に関心がありませんでしたが、今振り返れば錚々たるメンバーです。
本土に住んでいる人々、昭和28年(1953年)まで奄美群島がアメリカ領であったことをご存じない方が多いのでは!
私、その頃中央線飯田橋駅近くに住んでいましたが、それ以前に親戚、知人、東京へ出てきた方は密航して来たと聞いていましたので、
小さい頃からその知識はありました。

 

会長の話しによれば、本土への渡航は手続きが面倒なうえ、許可が下りるまで時間がかかるので、密航の手段でわたる人が多かったと言っていました。
私の叔父、叔母などその類なのでしょう。
聞くところに拠れば、手続きのために喜界島から奄美本島まで出向く手間暇を考えたら手っ取り早かったのでしょう。
同席の隣の人が教えてくれましたが、最近北朝鮮から漁船で脱北した9人の難民が使用した船と大きさはそう変わりがないと教えてくれました。
叔母が自費出版の歌集の中で、船底に身を潜めながらの航海と書いてありました。

 

会長の思い出話に本土復帰にまつわる話が出たのです。
会長のお兄さんが※「奄美タイムズ(新聞サイズ ダブロイド版)」の編集長をやっていた時期、一面に「12月25日本土復帰めど」とニュースを書いたのです。

※用紙サイズで開いた時に約21インチ×16インチ(546mm × 406mm) となる判形のこと。

その事が、アメリカ憲兵(MP、CIA?の腕章をつけていたと言っていましたが多分勘違いと思います。)の目に触れ、ジープで事務所に乗り付けて、
お兄さんに「めど」とはどういう意味か、その情報元はどこからと、
権威を笠に着て、脅しをかけるのですが、お兄さんまったく動じず、2時間も押し問答して押し返したそうです。
当時、車と言えばジープしか走っていなかったそうです。
それを見ていた会長、それ以来お兄さんを尊敬するようになったと楽しそうに語ってくれました。

 

私も、それは立派な行為でしたと称え、本当の意味でお兄さんはジャーナリストでしたねと話したのです。
当時の占領軍であるアメリカ兵の立場、占領された島民の立場を考えれば本当に勇気ある行為と思えたのです。

復帰を果たせた背景には、奄美群島、アメリカ軍にとって戦略的地理条件が沖縄よりない事があげられます。
沖縄が本土復帰を果たすのは19年後の昭和47年(1972年)です。
今でも、アメリカの戦略構想では重要な要所、基地問題で揉めるのもそれが理由でしょう。
大局的立場から言えば、日本の国防にとっても同じことが言えるのではないでしょうか。
まして、この最近の中国、ロシアの動きを見ればなおさらの事。

 後2年経つと60周年になりますね。

1953年ですから2013年がそれに当たります。

盛大な記念式典が企画されるのではないでしょうか。

※ 教室のご案内はこちら

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