都電の思い出

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昭和30年、小学校4年の時、家の事情で千代田区飯田町から板橋区蓮根町に引っ越をすることに。

当時は、田んぼと畑が広がっている地域で、都心の風情とは全く趣が違い、田舎です。

当時住んでいた飯田町は目白通りに面していて、都電が走り、毎日目にしていました。

その頃、悪戯したのが釘を線路に置いてつぶす事、車が少なく出来たのでしょうが、車道を急いで横切り、釘を線路に置き、都電が走り去った後取りに行くのです。

見事につぶされ平になります。

形が刀みたいになるので面白かったのでしょう。

 

親からは今度引っ越す場所、野原が一杯ある所と説明を受けていましたが、親はがっかりさせないようにと気を使ったのでしょう。

昔風に言えば、都落ちと言った印象です。

遊ぶ環境が一変しました。

しかし、転校はせず通学となります。

その際、乗った電車が都電でした。

「都電路線図 昭和30年代」の画像検索結果

靖国神社の側にある小学校までの道のり、志村橋で乗車し、九段上まで約一時間かけての通学でした。

当時は、都電が足代わりとなっていて、通勤、通学にと大勢の人たちが利用していました。

志村橋、志村坂下、志村坂上と都電は進みます。

志村坂上には中山道一里塚があります。

今で言えば、路線的に都営三田線となるようです。

 

都電は次第に混んできます。

板橋市役所を過ぎ、巣鴨車庫前に着くころには満員です。

子供なので、都電の運転見たさにいつも前、運転席の境目には鉄の棒で仕切ってあり、それが胸を圧迫して息苦しくなりますが、

運転手の操作を見ていると楽しいのです。

ある時可哀想と思ったのでしょう、運転手さんが見かねて、

スペースがある運転席に入れて呉れた事がありました。

今でしたら規則違反と言われて罰を受ける行為なのでしょうが、当時はそれが許されたみたいです。

とても嬉しく感じた事思い出します。

良き時代でした。

 

間もなくすると、担任だった先生が乗車する白山上、何度か通学途中お姿を見かけた記憶があります。

それを過ぎ、都電は春日町へと。

講道館があるところです。

昔は、水道橋にありました。

後楽園、水道橋、三崎町、神保町と向かい、

神保町で乗り換え。

そして、九段上で下車、その足で靖国神社を通り抜けて小学校へ。

下校時、九段上で筆の商いをしている級友の家で当時流行ったバンカーゲームなどをしたりして遊んで帰るのを日課の様にしていました。

 

通学に時間は掛かりましたが、都電に乗れること自体が楽しく、面倒な思いは持ちませんでした。

都電の運転操作、変圧器(コントローラー)のレバーをカチカチと回して加速していく様子、ブレーキにはメーターがついていて、取っ手を左右に動かして制動していました。

圧縮空気で動いていたと記憶にあります。

停車、発車の合図は車掌が行い、チンチンと鳴る鉦、一つで停車、二つで発車だったと思います。

ある時、軌道に入り込んだ車(確か、オースチン)と乗っていた都電が衝突する事故にもあったことがあります。

運転手が急ブレーキをかけたのですが間に合わず、後部右側にあたる事故でした。

 

都電にも種類があるようで、板ばね式で衝撃を和らげるもの、少し新しいものは空気ばねを採用しており、

走りが柔らかいもの、新車になると変圧器が小さくなり、コンパクト化され速度も速くなってきました。

当時は定期券を月単位で買っていたように思います。

確か志村坂上に販売所がありました。

定期券、幾らだったか記憶にないのですが、私の記憶では昭和20年代後半、往復で買うと25円ではなかったかと思います。

その料金から察すると、子供5~10円? 大人15円位でしょうか。

兄弟3人の交通費は家計に負担だったようで、6年に進級の際、板橋の小学校に転校を余儀なくされたました。

 

転校の日、校庭で先生、級友とお別れする時の悲しさは子ども心に焼き付いています。

約一年半の通学でしたが、都電に乗って楽しい日々だったことを思い出します。

追記

ネットで路線図を調べると、志村線→板橋線→巣鴨線→白山線→水道橋線→九段線と亘って都電を乗っていたみたいです。

「巣鴨車庫 都電 写真」の画像検索結果

ネット記事より。

懐かしい、この路線で通学してました。
車の形から昭和40年代ころか?
三輪車が見当たらない。

 

 

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