ある兵士の体験記を読んで!–さらばホロンバイルよ–

さらばホロンバイルsmall.JPGのサムネール画像この手記を入手した切っ掛けは、久しぶりに北海道に住んでいる親友に電話をした時でした。
彼も会社を経営しているので、この不況の中どのように取り組んでいるのかなど近況を聞くためでした。
政治、経済などに話が及ぶ中、先の大戦の話が出て、いろいろやり取りをしていると、こう切り出したのです。
「知り合いの方(彼の親父さんの友人)が、戦争体験の手記を残しているが、お前、読んで見ないか」というのです。
その人は陸軍中野学校を出て、関東軍情報部に配属され満州で従軍したというのです。
その言葉に興味を引かれ、読むから送ってくれと頼みました。
数日後、自宅に届きました。
その後、彼からどうだったと感想を聞かれたので、まだ読んでいないからと返事をし、読み終わったら感想文をメールすると伝えました。

 

あらすじは、ソ連軍が満州国国境を侵入して、戦闘状態となりその最中、約1年の脱出劇の話でした。
私達、戦後生まれのものにとってそれは凄まじいものでした。先人達が生き抜いてきた体験を知り、改めて生きる強さを知らされました。
そのことを読者の方々にも知っていただければと思いブログにしました。
友人宛に送った文面を手直しをして記述します。

手記のタイトルは『さらばホロンバイルよ!』です。
※ ホロンバイル フルンボイル市(フルンボイルし、慣用読み: ホロンバイル)は中華人民共和国内モンゴル自治区北東部に位置する地級市。
市名はモンゴル語で、地区に含まれる湖である呼倫湖(フルン・ノール)と貝爾湖(ボイル・ノール)に因む。東西 630 キロメートル、南北 700 キロメートル、総面積 253,000 平方キロメートルで、山東省、江蘇省の面積の総和より大きい。

ワープロで書かれており、まだ出始めた頃の物のようです。今はパソコンが主流ですが当時は専用機として売られていました。
恐らく書かれた方は大正生まれでしょうが、先進性のある方だったのでしょう。
操作を覚え、書かれたのだと思います。
多少、変換ミスも目立ちましたが61ページに及ぶ手記となっています。
全部は紹介できませんので私が特に印象に残った箇所を抜粋して記述します。

 

手記の始まりはこの記述からでした。
昭和20年8月9日ソ連が不可侵条約を破って、満州国の国境を侵入し戦車が監視所を襲い監視所にいた人が戦死した記述から始まります。

その様子の記述。

「・・・・9日午前3時40分頃、国境監視隊より非常電話のベルがけたたましく鳴る。『敵、敵、戦車ア~』と言うと、ぷっつり切れた。ソ連軍戦車に踏み潰され全員戦死でしょう。・・・・」
子供の頃、ソ連は約束を破った国と聞いていました。ニュースなどで映像を見たより、当事者が書いているので真に迫るものを感じました。
関東軍は、いち早く情報を知ったので民間人を置き去りにして退却したというような噂を聞いていたか、読んだりかした記憶があります。
手記の記述では、そうではなく民間人を守る行動をとっていました。
大局的な歴史の記述からは見えてこない部分です。
貴重な資料として、良くぞ残したものと感心します。
調べたら、当時の関東軍司令官は「山田乙三」という方です。
ソ連軍の攻撃から回避するために、特務機関本部に家族、民間人を待機させ、退避準備の話し合いで、「ハルピンまで送ったほうが良いと主張するも、陣地に入れる事」になった。
この事が、判断ミスとなり多数の犠牲者が出るのです。
戦争では、判断ひとつで生死の分かれ目となることも改めて実感しました。
手記を書いた方Yさんとしておきます。Yさんは1/3しか生き残れなかった現実をみて後悔したことと想像されます。
土壇場に追いつめられた時、自分の信念を通す方が良いのかもしれません。

 

身をかくまうトンネル容蓋の壁に、8月だというのに人の息で氷が一面に張ると書いています。想像すらできない蒙古の気候風土が察せられます。
どんな思いで夜をすごしたのでしょうか。
幼子のことを思うと、過酷過ぎて言いようがありません。
ハイラル市内では戦闘状態煙が上がり銃声の中、子供達は恐怖心で一杯だったたろうと思います。
※ハイラル ハイラル区(-く)は中華人民共和国内モンゴル自治区フルンボイル市に位置する市轄区。

O憲兵曹長が狙撃されて戦死するほどの最前線、大砲の音、弾丸の炸裂音、戦車の轟音、これが毎日続く中、気力が萎える程のものです。
斬り込む前夜、国歌「君が代」、「海ゆかば」を歌う、こんな悲壮な歌を聞いたことがないと書き綴っています。
親子との別れ、4才のR子ちゃんの叫び声、「お父さん~」は悲痛です。

18日の斬りこみ込みと書いてあるのですが、終戦の通知が届いていなかったのだろうか。
斬り込んでの戦い、十数行に渡ってかかれていました。無我夢中で必死になって戦ったのでしょう。
斬り込みに用いた日本刀の刃はボロボロに欠けたそうです。
Yさん、斬り込んだ様子を次のように書き残しています。
「・・・・絶叫して日本刀を振り上げて飛び込む。皆一緒に続く、ソ連兵がワァーワァーと泣き声を上げる。頭上に照明弾が無数に上がり真昼のように明るい、影がない、黒い人が動く斬る、敵味方の弾丸が飛び交う轟音、手榴弾を投げ、日本刀で斬りまくる、気が狂った様に・・・・・」

 

もう一度の斬り込みとなったが戦況悪化、
A機関長と死の覚悟を決めたところへ、停戦の知らせ、生き延びるには、このような運にめぐり合えなければ出来ない事とつくづく感じました。
軍使として、ソビエト軍と武装解除の段取りをつけた際、時計を取られている。これはまさに噂通り、ソ連兵は泥棒と同じ。
戦死者の埋葬をすませて、家族壕に戻ってまた家族に会えることが出来た事、ほっとした事でしょう。
陣地の将校行嚢に入っていた50万円が盗まれた一件、ずるい奴どの時代もいるものです。しかし、満州国興業銀行にまだ50万円があったのにも驚きました。
これで、帰る金が調達できたことは良かったです。
Yさん、特務機関ということで、つかまれば銃殺される立場が、後々大変な目に合うことは覚悟の上だったかも知れません。
家族他生き残った人たちはトラック3台に分乗して帰ることが出来たことは本当に良かったです。
その後、クダハン墓場と呼ばれる場所で留置されて取調べを受けて、その最中、銃殺される人が出ていた時、今度は俺かと不安になったことでしょう。

 

しかし、患った肺結核が彼を救います。
運があります。
その後、新京にたどり着き、知人たちと再会します。
新京の治安状態に触れていますがひどい事。
「新京はソ連軍と国民党政府軍で占領政治、何が政治だ、行政だ、泥棒の横行、まるで13年前に逆戻りです。・・・・窓、入り口、路上で女を襲うソ連兵達、民家に泥棒に入る、商家に現金を盗み物品を略奪するソ連兵集団、これが共産主義の本質か・・・・」。

「これが共産主義の本質か」と記述がありますが、これを証明するかのように、今は共産主義国家は瓦解しました。まだ残っている国家もありますが、

同じような結果になるのかもしれません。

12月20日頃、ハルピンへと汽車に乗った時、その車掌の出会い会話に興味を持ちました。その車掌蒙古人なのかわからないが好意的だったと車中、車掌の演説を紹介していました。

 

「ソ連軍より日本軍のほうが良かった。我々を襲ったり、物を盗んだりしない。
安心して通勤、商いが出来た。赤鼻の野郎、タービンズ(※意味不明)、泥棒野郎め、あんなのは、軍隊でない、匪賊だ、馬賊の集団だ・・・」

追記

※調べたら、粗悪な食べ物らしく、生ねぎと一緒に食するもので、ここに記述された意味は、良くないものとして挙げられたのでしょう。ターピンズ(トウモロコシを焼いたもち)

先入観もあり、満州国は日本の傀儡政権と流布され負の印象を抱きがちですが、その時代の民衆側の話では善政を行っていたことが分かる話でした。
次の話もその証左、車掌が言うに、
「先ず、五族協和、治安が良かった、教育、鉄道だね、列車が時間通り正確に走る。一番の功績は貨幣制度です。・・・・中国の歴史史上初めての痛快事・・・我々の13年間と、五族協和を、日本関東軍の評価、拍手を・・・」

「一番の功績は貨幣制度です。」の記述の意味は、この頃政府が変わる度に民衆は損したが、この度は百円は百円で通用したからだそうです。

此の時、Yさん、素晴らしい旅、いや車中であったと感動をしていました。
だからこそ、覚えていたのでしょう。
この話、当時満州国ができる以前、民衆が大変な目に遭っていたからこそ語られた話なのでしょう。
当事者でなければ、分からない話です。
民衆側の視点から見ると満州国の建国は歓迎されていた事が、この記録から見て取れます。

ハルピンに到着し、家族を探す。
誤報だったのですが、R子ちゃんが病死したと知らされて死体を探すところも悲惨だった。
「凍った死体、マネキン人形の捨て場のようです。地獄だ、来春氷が溶け割れて、水葬になる。正に地獄絵図です。・・・」
死体が置かれている場所、水が凍った湖の上。
そして、難民収容所での再会、まるで映画のようです。
50万円を盗んだやつ等が判明、記述にその怒りを書いていた。K家の話も悲惨、夫は戦死、子供は4人死亡、その上、山田何某に1500円を騙し取られてしまい、その婦人気がふれて、ついには死んでしまう。
悲しい出来事です。

 

そして、密告したK.Oとの偶然の再会。
「K、きさま~、俺を共産軍に売ったなー・・・生かして日本に帰さないぞ、
胆に命じておけ」、Yさんの怒りに震える様子が手に取るように分かります。
妻A子を失いながらも、妹、子供、娘息子二人で日本へ帰りつく。
人々の善意に助けられながら北海道へ。1年以上かけての脱出、本人曰く
「昭和21年8月18日が終戦と。いや、新しい戦いが始まった日です。私は、国の為に青春時代を満州、蒙古で五族平和を真剣に推進して来ました。終戦後は私の意志と行動で生き、同邦達と助け合い帰りました。国、政府はB級追放を以って報いた。」
と書いてありました。最後の記述に無念さがありありと見て取れます。
この手記を読んでドラマより、ドラマらしいと思いました。

 

歴史となってしまった今、体験者から見えてくるものに感動し、違う歴史を見た思いがしました。
満州から引き上げた人たちがどんな悲惨な体験をしたか、口に出来ない程のものと私は聞いていました。
P31に書かれていた、満鉄職員から聞いた話、奥地の引揚者の悲惨さ、興安南省葛根廟事件を詳しく知りたいと思いインターネットで調べたら、載っていました。

ソ連軍が非戦闘員の婦女子、子供を銃撃し、約1900人を殺傷する事件、ソ連兵に強姦される事件が記されていました。
検索語は「興安南省葛根廟事件」でした。リンクしても良かったのですが女性が読むに耐えない描写でしたので敢えてしませんでした。
くわしく知りたい方、その検索語で直ぐ分かります。
想像以上の悲惨さでした。
当時の日本女性の価値観(大和撫子)でしたら、絶対、口にできるものではありません。
日本人として、敗戦したとはいえその非道なる残虐性を糾弾できないのが悲しく、そして悔しいという思いを禁じ得ません。
勝者に罰はなく、敗者だけがその責めを負う。
国際法というものがありながら。

 

感想をブログとして出すことを、送ってくれた友人に電話で話した時、「いいじゃない、Yさんだって喜ぶのじゃないかな~!」と言ってくれました。
Yさんの息子さんが彼に語った話を紹介してくれました。
臨終間際、昏睡状態だった時、突然「みんな逃げろ~、ソ連戦車が来るぞー」と絶叫したそうです。
深く脳裏に刻まれた体験だったなのだと知らされました。
友人が言うに、Yさんの人となり、生き様が立派な方で、流石、修羅場をくぐった人は違うと感心していました。

敗戦で、価値観が大きくぶれて、当時は軍人として憚る気持ちがあり、口にしなかったのでしょう。この手記を書いたのは、親友の親父さんの勧めによるもの。体験した事実を残す気持ちになったからこそ、手記を書いたのでしょう。

※ B級追放は、親友の説明では「公民権が剥奪される状態」と言っていました。

<追記>

B級は「通例の戦争犯罪」で、戦争法規に対する違反行為と当時の占領国GHQの命令によるもの。

手記を書いた人、「国、政府はB級追放を以って報いた。」と綴っていますが、正しくは日本国でなくGHQによる烙印です。

その時日本には主権はなく、占領軍にあったから。

 

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