防諜に関心を強く持つようになったのは「北朝鮮拉致事件」が大きく影響しています。
今でも拉致被害者を奪還することが出来ないままです。話題に上る「横田めぐみさん」、中学生で拉致されてどんな怖い思いをし孤独の身で望郷の念に駆られているかと想像すると、同胞を救えないままにいる日本に不甲斐なさを感じます。
昭和40年代から「日本はスパイ天国」と世情ではよく言われていたと思いますが、若かったこともありさほどの関心は示さなかったのですが、スパイ事件として有名な「スパイ・ゾルゲ事件」はよく耳にした記憶があります。
リヒャルト・ゾルゲ(ドイツ語: Richard Sorge, ロシア語: Рихард Зорге, 1895年10月4日 – 1944年11月7日)は、ソビエト連邦のスパイ。1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけてゾルゲ諜報団を組織して日本で諜報活動を行い、ドイツと日本の対ソ参戦の可能性などの調査に従事し、ゾルゲ事件の首謀者として日本を震撼させた。ウキペディアより。
日本軍の作戦展開が南方方面に向けられていることが分かりソ連軍は欧州方面に軍隊を集中し作戦展開を有利に進められたと聞いたものです。
戦争には諜報活動欠かせないものと思います。
日本の事例では「日露戦争」ですね。
諜報活動した人物では「明石元二郎大佐」が有名です。主な任務は「後方攪乱」。
明石はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶる為、様々な人物と接触した。例を挙げると、フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派、他ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などである。特に、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス (Konni Zilliacus)率いる フィンランド革命党などを通じ、様々な抵抗運動組織と連絡を取り、資金や銃火器を渡し、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュが展開されていった。内、鉄道破壊工作などは失敗するものの、デモ・ストライキは先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られた。ウキペディアより。
これによりロシア軍は軍隊を分散せざる負えす、日本との戦いに軍隊を集中できなかったことが敗因としてあげられる。
この様に過去の歴史からも、国々がスパイ活動をするのが国際社会では通例です。
「防諜に動いた合気道師範」、この本に自身の体験談が書かれていました。
北朝鮮のスパイ活動を知ったのが切っ掛けの様ですが、自身の「国を思う」心が彼を動かしたのでしょう。
著者 佐々木将人(まさんど)、「人生山河ここにあり」昭和63年12月1日発行、私も合気道を稽古していた時期で、指導もしていたので勉強にとこの本を買い求めたのです。
著者その活動を第4章「合気道人生--人生とは出会いなり—―」に書いてありました。
「・・・昭和36年頃、新潟に北朝鮮のスパイが上陸したとか、ソ連のバレエ団が日本の電話帳を持って帰り”日本の産業地図”を作成したという情報が世間を騒がせていた。
※私はまだ中学生であり「著者が切実に思いを抱くほどの事」とは考えられない年齢。
そのような情報は、大和男子の血を騒がせずにおられない。私は、翌37年、勤めていた防衛庁を退職し、旧陸軍中野学校の卒業生らと共に「産業防衛学院」を設立し、各企業からも人を募った。
※当時これに呼応した企業があったとは時代と思わせます。
しかし、これがマスコミの知るところとなり、英国のBBCはじめ、アメリカのニュースに雑誌”タイム”(1962年12月24日)にまで、”日本のスパイ学校”として報道されるところとなり、開校以来僅か1年数ヵ月をもって廃校に追い込まれてしまった。
※ あの頃戦勝国のイギリス、アメリカにとっては面白くない行動と見られたのでしょう。この頃、国は戸惑いもあり、支援に躊躇があったのではないでしょうか?
ゆくゆくは各国に武道の出来る人材を派遣し、情報収集活動をしようと考えていた矢先だったが、夢破れ、出資金100万円も消えた。無一文となってしまった。
また、その年の12月に、北海道時代の同志でもあり、仲人でもあった金田先輩が狭心症で急死する悲報が入った。戦時中、名古屋で多くの死者を見、また、それを処理した体験がありながら”先輩の急死”は大きなショックであった。
私は個人と国家の関係について迷っていた。
※個人と国家の関係について著者は迷っていたと書いています。大東亜戦争で敗戦し、当時世情の空気は、戦前までの考え方、価値観が占領政策で否定され、教育界、法曹界など様々な分野で国家としての指針が揺れ、経済復興を目指すことだけに集中し、防諜機関の必要性は軽んじられていたのか?
”枝葉末節の果実を求める個人の生活も、幹や根である国家の安定があってこそ、成り立つものではないか”と考えていたが、そのための「学校」が廃校されてしまっている。私の心は”迷い”の渦中に落ちていた。・・・」
”枝葉末節の果実を求める個人の生活も、幹や根である国家の安定があってこそ、成り立つものではないか”
著者は昭和4年生まれ、この記述にあるように、一途な行動に出た思いは、著者が生きた時代背景にあり、国家の機能が何たるかを理解していたのでしょう。
がしかし、敗戦となり国家観の見方、考え方が揺らいでいた時代、どうすればと思い悩んだ様子が見て取れます。
でも、その記述、「国と個人の在り方」として今も変わらないと思います。
「国体護持」がなされてこそ、個人の幸せが追求できる「場」が確保できるものだと思います。
あの時代にこの行動に打って出た「一個人」がいたことに驚いています。
合気道の修業仲間の先輩がいたことに痛快な思いを持ちます。
調べてみると、あの頃北朝鮮のスパイ活動を盛んであり、ニュースにもなっていた。著者は己の信念通りに行動した事に「大和男子」の心意気を感じます。
私、北朝鮮のスパイ活動、あの頃は、著者のような危機感を持ち得る見識も無く、大学生になった時期でもそのような意識(危機感)はなかったと思います。その後、徐々に「国とは何か」と自問する様に変わっていた頃、あの拉致事件、スパイ防止法の不備によることが遠因になったとか。
それ以降から「防諜機関」の必要性を強く思うようになって行きました。
現在も暗躍している事は否定できません。
著者が行動したように「防諜機関」の充実、拡充が国家として行わなければ、と思います。
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