この本は朝倉彫塑館見学の折、書斎の書棚に保管されていた本で、題名をメモしネットから入手した古本です。
この様な本に関心を寄せる切っ掛けは合気道開祖植芝盛平との出会いです。
昭和40年、大学1年の時、新宿若松町にある本部道場で直接合気道のお話を聞いた事。
聞けば、神話に登場する神々の名を使い合気道理念の説明をしていたと思うのですが、それがどのように合気道と関わるかは理解不能でした。
がしかし、その事が関心を寄せる切っ掛けとなり研究とまではいきませんが、折に触れ神道関連書籍などを購入しこの年まで興味の対象となっています。
朝倉彫塑館になっている朝倉文夫氏の自宅の書棚に並んでいた多くの本からこれをメモした理由は「日本古代史と神道の關係」のタイトルに興味を覚えたのです。
日本の歴史としてはざっと3000年といわれており、日本書紀の初代神武天皇即位から紀元2678年。
そんな観点から神道を知りたいと思ったのです。
この本は、久米邦武氏が講演された内容が沖野岩三郎氏によって筆記され、それを師である久米氏に改竄訂正してもらって出版されたのが明治40年、それが下って改訂版と昭和14年に発行された書籍です。
講述者の久米邦武氏が著者となり、子弟である沖野岩三郎氏が監修した形で創元社から発行されている。
住所が東京市四谷区愛住町19とあり戦前を思い起こさる。
久米氏の経歴に関心が行きました。
「天保十七年、奮肥前佐賀藩士邦郷の子として生る。文久三年江戸に出て昌平黌に学び、明治政府なるや二年九月大史兼神社局大辨となる。四年岩倉特命全権大使に随行して欧米諸国に赴き六年九月に帰朝、・・・」
随員として明治初期に洋行の経験があり当時としては珍しい存在でしょうね。
そんな彼が、神道に関心を寄せ、この本に口述を記したのだろうか?
やはり、日本の精神文化の基底にあるものとの認識はあったのでしょう。
冒頭にも書いてありましたが、「宗教と歴史は極めて仲の悪いものです。」とありました。
確かにそれを事実として、裏付けが取れる確証がないものは歴史としては扱いにくいが、口承文化、神話として捉えれば、またそれはそれで研究の対象になると思います。
合氣道開祖植芝盛平は、記紀、そして言霊学として伝えられた精神文化を宇宙観、世界観と捉え、合気道の理念としてそれを説いています。
その様な展開ができるほどの内容を包括しているのが神道だと言えます。
その様に、様々な内容を包括している神道、神話と歴史の相反するテーマを取組んだのかと思うと、この本にも記されていたが、国策として神道が国の宗教として取り立て、その裏付けととるような機運が起きたのかもしれません?
歴史的観点でいえば皇室との関連を観なければいけないのでしょう、次のような記述がありました。
初代神武天皇から32代崇峻天皇までの記述がありました。
この本が確かに学術的アプローチで取り組んだと思われる記述がありました。
それは第5章神道総論に、
「・・・日本書紀の神代のいけない所は漢文で修飾した書いたという点であります。だから後世の国学者には嫌われること甚だしい。けれど事実は質朴で、古事記以前の材料を沢山収めてあります。本居宣長は古事記信者で漢文嫌いでありました。これは僻みの多い話で、漢文を十分理解してその上平心で読めば其の内容のあらが悉く見え透きます。・・・」
古事記を読めるようにした本居宣長も、冷静な判断からするとそのような評価になるのでしょう。
「日本古代史と神道の關係」それ自体を検証するのには困難がさぞかし多かったでしょう。何せ古代を調べる資料が充分に揃っているわけでは無し、やはり、古事記、日本書紀が中心となっているようです。研究、勉強の際は、神話の世界、学術の範疇か分けて取り組むようですね。
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