このタイトル、ネット記事の見出しです。
昨今のテレビのバラエティー番組を観ていて感じることですが、芸能人の不倫報道など取り上げていちいち、倫理観を振りかざし、どうのこうのと芸能人が議論し合うケースが増えてきています。
私が子供の頃に持っていた芸能界の印象から見て、異和感を感じることがあるのです。
私の芸能界の認識は、特別な、特殊な世界と子供心にありました。
小さい頃から映画をみて育った世代、神楽座坂、神田神保町の映画館で見る当時の映画スターは華やかで、稼ぎも多い人との印象がありました。当然ながらスターと呼ばれる男優たちは2枚目で女性たちにモテる存在と認識していました。男女の色恋、浮名を流すなど当たり前の時代だったと思います。
そんな話で、記憶にあるのが、大映の2枚目スター長谷川一夫が話していた事、インタビュアーの質問、「おモテになるのでしょうねと」いわれれて返答した内容が「モテません、モテると言えば柳家金語楼さんですよ、かないません」と話していた記事でした。
柳家金語楼は喜劇俳優としての印象が強く、名前から落語家でもある事は知っていました。
その意は「女にモテる、モテないは外見じゃない」と言いたかったのでしょう。
後でわかった事ですが、「お妾さんがいたとか」と仄聞したのです。
当時は、金持ちなど「妾」持つことは、認知されていた時代、世間がどうこう言う時代でもなかったと思います。
その様な風潮がある時代、芸能界は、一般社会の人達とは違う存在との思いを持っていました。
日常的な生活の中でも、小学生4年ある時、ある事情で親から「あの子は妾の子」と説明を受けた事があります。
俳優の大河内伝次郎の京都にある家などはそれは立派なもので、いつだったかテレビ報道で知りました。
それがテレビの普及に伴い、芸能界が身近な存在となり、アイドルと言われるタレント、お笑い芸人が多数出て来るようになり、またそれに憧れて芸能人になりたいと思う風潮は当たり前のようになっています。
今や、かっての銀幕の映画スターにとって代わり、スター並の人気、さんま、たけしがいい例です。
小学生6年の時、先生が芸能界に入ることを戒めていた事を思い出します。
芸能人と言えど成功する人は一握り、水商売でなくしっかりと生活が成り立つ仕事に就きなさいと言うことなのでしょう。
それが今では親が子を芸能界に入れようとする風潮があります。
時代の変化を感じます。
食うや食わずの時代を超えて豊かな社会になった証しなのでしょうか?
芸能界はある意味で今までは一般常識とはかけ離れていた世界だったのが、俳優中井喜一が「閉塞感」との言葉を使い、今のマスコミ、世の中の対応に苦言を呈しているのです。
ネット記事にこう書かれています。
「俳優の中井貴一(55)が24日、BS-TBSの特別企画番組「中井貴一ヨーロッパ大紀行2~世界を創った天才たちの素顔 ダ・ヴィンチVSミケランジェロ」(6月13、20日、後9・00)の発表会見を、都内の同局で行った。話題は昨今の芸能界についても及び、世の中の「コンプライアンス重視」の流れが現在の芸能界の閉塞感につながっている、と指摘した。」ネット記事より。
此処までの記事から想起されたのが、芸能界、スポーツ界などメディアにさらされる人の行動や私生活の態度に触れて、いちいち社会的影響を鑑みると、立場を考え道徳的な振る舞いをしないといけないなどと
尤もらしい批評をする報道が出て来るのです。子供たちへの影響が大きいからという理由で。
不自由な場に身を置く仕事になっているのです。
映像には喫煙場面が無くなっているもんね。
「・・・15泊17日の欧州ロケで、ルネサンス期の天才芸術家2人の足跡を追う番組。中井は「自由な“変人”たちが認められる時代が、ルネサンス期だった。そういうものが、今の日本に必要なんじゃないかと思う」とし、「自由がありそうで自由がない今の社会にとって、もっと自由が必要なんじゃないかと思う」と力説した。・・・」ネット記事より。
ここで言う「自由」は何かですが、若い頃観てきた芸能界に身を置く映画スター、歌手など一般常識からはかけ離れた行動をとる人達がいたような気がします。
大映の勝新太郎などはその典型でしょうか?
※そういえば思い出したあの鞍馬天狗を演じた嵐寛寿郎も結婚5回して、別れた女性には財産を惜しみなくくれた俳優だった。
人並み外れた生き方をしているからこそ、演技にも味が出る、晩年東映の任侠映画に出て十分に発揮していた。
がしかし彼の職業としての役割を考えれば、どれほど一般大衆に娯楽、楽しみを与えたかと目を向ければその価値は大きいのでは、それが仕事の評価と言えるのでは?
それが、ちと外れた行動、破天荒な生活態度を、一般常識、道徳律で計ってしまうと芸の幅が狭くなり、演技に妙味が生まれてきません。
その所をどう見てあげるかではないかな?
その上で、昨今の芸能界を覆う閉塞感に関しても「やっぱり強いんじゃないでしょうか」と言及。「多分、僕たちの世界だけではなくて、世の中全部がコンプライアンス重視の流れになっている」とし、「(芝居などは)『ウソですよ、ウソをやってるんですよ』っていうことを、昔は見ている人が理解して、指摘していた。それがいつの間にか、そこに現実を重ねる幅が大きくなりすぎた」と分析した。
さらに「もっとウソを楽しんでくれればいいのに」とし、「昔、うちの親父(佐田啓二氏)も俳優をやってましたけど、昔は芸能人なんかにはなっちゃいけないっていう“ヤクザな商売”の扱いだった。でもいつの間にか、市民権を得たのはいいんだけど、異常な市民権を得てしまうと、束縛しかなくなっていって…」と、細かい指摘が増加したことで表現の自由度が下がっている現状を嘆いた。」ネット記事より。
松竹の三羽烏と言われた佐田啓二、なんといっても「君の名は」ですね、ほかに高橋貞二、鶴田浩二と2枚目スターが名を連ねています。
そのヤクザな商売”の扱いと言うほどの仕事、昔のように芸能界は一線を画した社会なわけですから、目くじら立てず、常識外の世界であるとみる方が妥当なような気がします。
昔のように彼らを特殊な人たちと子供に教えて置くことも必要かも。
私の子供の頃のように!
でも、これほど茶の間に芸能が入り込んでくると難しいかな。
芸能界でなく、一般社会でもこの閉塞感を感じる面もあります。
一例、母校の学園祭、酒は禁止、昔は年齢にかかわらず1年生から4年生まで酒を酌み交わせたのに、
OBは後輩の年齢を確認してから酒を注ぐことになりました。
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