私がその存在を意識したの何時頃からだろうか?わたしの親はともに大正生まれ、ご皇室との関連は学校教育でその存在を教えられた世代、母などがいつも自慢していたことに、初代から124代までの天皇の名を暗記していたといっていました。いわゆる国家神道の枠組みでその意義を教えられた世代でしょう。
学校行事にも、奉安殿が学校にあり四大節祝賀の際、御真影を拝むなど親から教えて貰っていました。それが占領政策でそのような神道の行事は良くないと廃止されてしまい、3000年の歴史を紡ぐ伝統の国家行事として行われなくなりました。
紀元節の呼称はなくなりましたが、親からは建国を祝う行事と教わり、建国記念日と名を変えて今日に至っています。
軍歌「紀元は2600年」など母親が口ずさんでいましたからその意味は子ども心にすぐ理解できたのだと思います。
何故学校で皇室の歴史を教えなくなったのか、その理由を次のように記憶しています。
それは占領軍の命令で、「歴史教育は事実がないものを教えてはならない」と言う事と。
確かに初代天皇の神武天皇は記紀での話で神話として伝えられたもの、それを証明できるような証拠はありません。
がしかし、その様な神話が生まれる歴史的な背景が有った事は間違いないと思います。
そのことが大切であり精神文化の基礎ともなっていたのです。
その証拠が125代続く皇室の存在なのです。
記紀などは当時の国家体制の基礎固め的なものとして記述されているなどといわれますが、それまでの歴史に語りつがれたものの存在があったからこそ成しえたものと思います。
戦後は昭和天皇が各地をご巡幸され、日本国民を励まされ復興の思いを固めることに繋がりました。
私などは、映画ニュースでその事を知りました。
各地で国民に歓迎されている場面を見て敬愛されている存在と知りました。
そんな天皇を直に見る機会がわたしにありました。
親父が目白通りに面にして文房具屋を昭和20年代やっており、
昭和天皇がたびたび宮城(皇居)に戻る道筋だったので車で通りを行く姿を見ていました。
靖国神社も近場にあったことと、皇居が近いことも皇室の存在を明確に記憶したのでしょう。
天皇制について美濃部達吉の天皇機関説の解釈が物議をかもしたなどと記憶にあります。
また、戦争責任について昭和天皇を追及する話しもあります。
戦後になって、戦前の国家体制を悪とする考えが生まれたのはマッカーサーの占領政策にあると判断しています。
日本人自身の敗戦の総括が必要です。
皇室は、記紀の世界からいえば紀元2673年の歴史が連綿とつながり、日本古来の精神文化・神道とともに歩んでいるのです。天皇が神道の行事を行うのがその証拠です。
今年は、出雲大社が60年に一度の遷宮、伊勢神宮が20年に一度の遷宮と、おりしも同時に行われる年となっています。
今一度ご皇室、神道との意義を理解するいい機会と思います。
ですから、
アメリカの占領政策、洗脳から脱皮しなければ真の独立国家としての再生できません。
素晴らしい国、「日本」とはどのような国家であるかと教育も見直しをしないと、
なんといっても、国のために命をささげた人を粗末にする国に真の国民は育ちません。
軍人墓地が荒れているとか、これも戦後の教育の弊害では。
その反省に立ち、彼の戦地で亡くなられた兵隊さんの遺骨を収集し故郷・日本に持って帰らねば!
追記
最近、世界で日本の皇室の存在感を示したのが高円宮妃久子殿下。
10数年前、癌センターでお見受けしたことがあります。その時は軽く会釈されたのでどなたなのかなとわかりません、
その時礼を返さず、後で非礼をしたことに気付きました
それは、オリンピックのスピーチで、
国際オリンピック委員会(IOC)総会の会場ホテルに高円宮妃久子さまが4日に到着されると、サロン的な空気を残すIOC委員が自然と集まるムードが高まった。招致委員会の竹田恒和理事長は「あの気品と流ちょうな英語。完全に流れが変わった」と、王侯貴族が委員となっているIOCメンバー高貴な血筋・伝統には敬意を払うとか、伝統でいえば日本の皇族にすぐる貴族・王侯はありません。
コメントを残す