三島由紀夫、以前にコメント欄で触れていますが、私が直接出会った唯一の文化人です。
実際に見た最初の印象は小柄な人だったということです。
大学生時代、有楽町へ映画を見に行った時日比谷映画の前で出会ったのです。
ネットより引用、映画の看板から見て1984年頃、三島由紀夫と出会ったのが1966年の頃、18年後の写真であるが風情は変わっていないと思われる。
2022年6月追加記載
当時、作家として有名な人ですが彼の著書は読んでいませんでした。
「金閣寺」「豊饒の海」などを書かれていますね。
書かれた小説よりも異色の作家という印象が強く残っています。
ボディービル、剣道を趣味にもち体を鍛えている作家として。
また、「楯の会」創設者として。
映画「人斬り」にも出演して、「人斬り新兵衛」こと薩摩藩士田中新兵衛を演じていました。
映画で切腹をするシーンがあるのですが、この次の年、あのセンセーショナルな割腹自殺をしています。
それは昭和45年11月25日のことです。
強い関心があった私には衝撃的な出来事でした。
誰もがそうだったでしょう。
なにせ、有名な作家でしたから。
ある日、買い物に出かけたスーパーの書店に行って「日本人養成講座」著者三島由紀夫とある本を見つけ買うことに。
この本で、彼の考え方が多少でも理解できるのではと思ったことがその動機。
「葉隠」について彼自身の考え方の記述があり、私も「葉隠」を読んでいたので内容に強い関心が湧き出ました。
その文章を紹介します。
■ 「小説家の休暇」の章に、(昭和30年11月)
「・・・私は戦争中から読み出して、今も時折「葉隠」を読む。犬儒的な逆説でなく、行動の知恵と決意があふれいかにも明朗な、人間的書物。封建道徳などという既成観念で「葉隠」を読む人には、この爽快さはほとんど味われぬ。この本には、確乎たる倫理の下に生きる人たちの自由が溢れている。その倫理も、社会と経済のあらゆる網目をとおして生きている。大前提が一つ与えられ、この前提の下に、すべての精力と情熱の賛美である。エネルギーが善であり、無気力は悪である。そして驚くべき世間智が、いささかのシニシズムも含まれずに語られる、ラ・ロッシュフコオを読むときの後味の悪さとまさに対蹠的なもの・・・」
ここまで読んでわからなかった言葉、「犬儒的」、「シニシズム」。
さすが小説家です、語彙が豊富 。
この言葉、この本を読まなかったらまず出会わないと思った次第です。
犬儒的・犬儒主義 〔ギリシア哲学の〕Cynicism; 〔一般に世をすねた考え方〕cynicism 。
シニシズム・犬儒主義,冷笑主義。徳こそ唯一の善であり,幸福は欲望から自由になることによってのみ達せられると説き,学問,芸術,贅沢,快楽を軽蔑して反文化的禁欲的生活を唱えた古代ギリシアのキュニコス派の立場。転じて一般に,道徳,習慣などを無視し万事に冷笑的にふるまう態度をいう。→キュニコス派
どうやら哲学用語のようです。
「葉隠」は武士としての心得を著したもの。
鍋島藩、山本常朝の聞書、元禄宝永の頃書かれています。
>確乎たる倫理の下に
>大前提が一つ与えられ
とありますが当然武士としての生き方です。
>封建道徳などという既成観念で「葉隠」を読む人には、この爽快さはほとんど味われぬ。
この記述に至ってはちょっと理解しがたいのですが、私なりに解釈すると厳しい武士の掟なれど確乎たる決意の下、武士として生きる覚悟を持てばその倫理に生きる中に爽快感がある。今の考えからすれば堅苦しく息が詰まるほどの武士の掟、しかしその倫理観に立って生きることが「行」となり「純粋」と感じられてくるのかもしれません。掟に縛られているようだけど、制約の中に生き方を見つけてこそ「爽快」になるなど「葉隠」を読むことで感じて来るのではないでしょうか。
>武勇とい言うことは、我は日本一と大高慢にてなければならず。武士たる者は、武勇に大高慢をなし、死に物狂ひが肝要なり。
という文節では正しい狂気、というものがあるのだ。行動人の便宜主義とでも謂ったものが、葉隠の生活道徳であると述べている。
戦後大きく価値観が転換した時代でも、「葉隠」に語られている価値を認めているのがすごいと思います。
生きることは「何か」と見据えられる三島由紀夫を見た思いがします。
凡人には解釈に難渋する記述ですが彼の生き様から想像してなんとなく理解しました。
彼が切腹した際、迷い傷がなかったと聞いていますが、それが彼の生き様を凝縮しているような気がします。
参考資料
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