賞味期限、消費期限に一考

前回のブログで、T氏(塗装設備会社元社長)と長時間にわたり懇談したと書きました。その懇談の中で賞味期限の話題も上り、一連の事件が起こっていましたので、私の考えを話したのです。確か次のような内容と記憶しています。
『今回の赤福の賞味期限改竄(かいざん)の一件は善い悪いは別として、私は作る側の人の気持ちを考えるとまだ食べられるものを捨てる気持ちにはなれないのでは(※ 後でも述べますが賞味期限の曖昧さ、期限を過ぎても食することが出来る事実がそんな気持ちにさせてしまうのでは)、『もったいない』と思う気持ちが湧いて。実際、今年、子供が赤福をお土産に買って来たものをおいしく食べたが、賞味期限を改竄してあったものじゃないかと思う。資源保護の観点からも賞味期限とは何か見直すべき・・・』。
その話を受けて、T氏も関心があったようで、後日電話連絡があり、あなたが言っている事と同じような賞味期限について記事が「週刊新潮11月8日号」に載っていると教えてくれました。その時T氏の情報収集アンテナの感度のよさに感心し、わざわざ電話をして頂いた事にお礼を述べました。
早速購入し読んでみました。書いた人は作家の渡辺淳一さんでした。
タイトルは「本当に食べられないのか」要約すると、
○発覚はタレコミが頼り
○消費期限ってなぁーにと言って、食品衛生法、JAS法にふれ、その解釈は簡潔に言えば人体に害
を及ぼすものでなければいいだけの事
○もう一度売ったら
○行政側の立ち入り検査の杜撰(ずさん)さ
○最後に、なんら科学的根拠も無い官僚の作った条文で善悪を決め付ける役所とそれに踊らされるマ
スコミの軽さ
と書かれていた。
※ スーパーで見ると弁当、惣菜、刺身類の生鮮食品などには消費期限、
加工食品など包装を施されているものには賞味期限とあった。
役所は今更の感があるが、マスコミの軽さであるとの記述に同感です。
皮相的な取り上げ方で、その事件からジャーナリズム的責務を忘れ、本質的な問題を見過ごしている。賞味期限、消費期限制度に内在する問題点、<食材が無駄になるのが良いのかなど、実効性、制度の見直しを世に問うべきではないか>と思うのですが。
テレビ局は芸能プロダクションと揶揄(やゆ)されるのもわかります。
渡辺氏は『赤福』を名古屋に寄れば必ず買って食べ、お土産にも使い、おいしい、おいしいと言われていたそうです。消費期限切れでもなんら害が無いことを述べていました。だから、「もう一度売ったらと」書いたのでしょう。但し期限切れと表示し、割引して売ると書いていました。
事件発覚後、白い恋人、赤福などは、消費期限切れと言うことだけで、まだ十分に食されるものを大量処分したそうです。
私の記憶に、昔は腐ったご飯でも洗って、お粥にして食べるくらい工夫して食物を大切にしていたことを思い起こします。
食べられるものを捨てる事、昔では罰当たりの行為です。
テレビ局の大食いタレントを使った番組は止めてもらいたいくらいです。
食べ物を無駄に扱っている感じがして、1日に必要な栄養だけをとればいいのですから。
以前にも、コンビニで売られる弁当などは消費期限が過ぎれば、廃棄されていると聞いていましたが、11/6のNHK番組クローズアップ現代で食の循環と題し、廃棄される食品を豚の餌として再加工に取り組んでいることを放送していました。
11/7付けの日刊工業新聞の見出しに「食品、建材 止まらない偽装」と題し、
「賞味期限切れ メーカーと消費者 問われる相互理解」と取り上げ、
食品会社一連の偽装、賞味期限改竄(かいざん)について記事にしていました。
私などから見れば、生鮮食品、お惣菜、弁当など鮮度志向が強く十分食べられるもの捨てられるのかと思うともったいない気がします。製造情報をお知らせし、消費者の目利き、判断に委ねて売ってみてはと考えます。
とにかく、無駄の起きない仕組みつくりを構築しなければいけません。
比内地鶏の一件は偽装、赤福は賞味期限の改竄、この二つの事件を同等に考えるのは短絡過ぎると考えます。
白い恋人、赤福については食中毒事件は起きていません。ここに賞味期限制度の問題点が内在しているように思えます。渡辺淳一氏が言っているようにその賞味期限/消費期限の根拠が曖昧(あいまい)だからです。
私の子供などは、食品の賞味期限の期日だけで判断し、過ぎていると捨ててしまうこともあるので、賞味期限が過ぎていても自分の感覚(味覚、臭覚、目)を使って異常が無ければ食べろと言っています。
私(昭和21年生)が子供の頃(Always三丁目の夕日的時代背景)は、家畜の飼料としてアメリカで使用されていた脱脂粉乳が給食として出ていたくらいです。当時の日本は食糧不足だったのでしょう。
毎年、秋になると新聞に米が多く取れると豊作と喜ぶような記事として第一面に書かれていたような気がします。
食べ物を粗末に扱うと叱られた時代です。アメリカ番組が放送されるようになり、テレビ場面にケーキを投げたり、顔に当てたりしているのを見ると罰当たりなことをすると感じたものです。
飢餓がどれほど大変なことか、悲しいことか、他国の例を見れば食べ物を粗末に出来ません。
もう一度、その頃を思い出し食物を大事にし、感謝する気持ちを再設定する必要があるのではないでしょうか。
追記その一
このブログを書き終えて1週間ほど経った頃、今度は料亭船場吉兆が但馬牛産地偽装が発覚、
博多っ子本舗のタラコ、明太子の 製造年月日や賞味期限の改ざんが報じられている。偽装はウソですから商道徳上の問題、しかし、食べた人達はおいしい、おいしいと食べていたのでは?。比内地鶏の例もあるようにある意味ブランド志向(ブランド物に日本人は流され易い)に行き過ぎた結果、供給限度を超えてしまい佐賀産、鹿児島産の牛を但馬牛と偽る結果になったのかと思います。
しかし、お金、お金の儲け主義が起こした結果とも言えます。日本人がエコノミックアニマルと言われて久しいですが、経営に携わる人たちがもう一度足元を見直す必要がありそうです。
食品衛生法の第7条
「食品衛生上の危害の発生を防止するため必要があると認めるときは、薬事・食品衛生審議会の意見を聴いて、それらの物を食品として販売することを禁止することが出来る」
この法律の解釈に渡辺氏の言葉を借りれば、
――人体に害を与えそうなものは売ってはならない――となる。
前述した白い恋人、赤福の例もあるようにタラコ、明太子も棄てられる。
偽装事件はこれからもタレコミで更に出てくるかもしれません。
賞味期限の制度は早急に見直しをかけないと、『モッタイナイ』事がたくさん起きてしまいます。
※『モッタイナイ』=勿体無い 物の本体を失する意 ① 神仏・貴人などに対して不都合である。不行き届きである。② 過分のことで畏れ多い。かたじけない。ありがたい。 ③ そのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しい。 広辞苑より
追記その二
賞味期限、消費期限について週刊誌「サンデー毎日12/9号」でも取り上げられていました。
食文化研究家 魚柄仁之助氏が書いていました。
タイトルは『ほとんど無意味で信用できない「賞味期限」は廃止したほうがマシ』
‘95年4月から製造年月日表示から現在の表示となったとあります。
要約すると私が感じた点を指摘していました。
○「製造日年月日表示」の時代は食べる際に五感を働かせて「食べてもいいかどうか」消費者が自分
で判断していた。
○「賞味期限、消費期限表示」となった現在、パッケージ表示だけで判断するようになってしまった。
○においや色、少しの味覚で食べ物がどんな状態なのかわかるはずです。日本人は今こその「能力」
を戻せとありました。
これから感じることは、今の日本人に共通している面が見えてきます。
生きていく上でのリスク回避を他人任せになって、自分自身で考え行うという自覚があらゆる面で希薄になっているように思えるのです。
追記その三
11/27付けの毎日新聞夕刊にも取り上げられていました。
牧太郎の「大きな声では言えないが」と言うコラムです。
要約すれば、
○勿体無いの言葉の説明があり「無駄」を諌める言葉、土地土地の方言を紹介していた。
北海道は「イダマシー」、茨城県は「アッタラモン」、岡山県は「モッタテャーニャー」、長崎県は「モッ   タイナカ」、しかし賞味期限改竄の理由に用いられ、マスコミが「もったいないという理由で」勝手に
改竄と批判するためにその言葉の本質的意味から離れ、マイナスイメージが広がる。
○1976年一部の加工食品に「賞味期限が」が導入された。「製造年月日表示」が主流の頃、諸外国   から「製造年月日の表示は自由貿易への障害である」との外圧から現在の仕組みとなった。
○ ケニア出身の環境保護活動家でワンガリ・マータイさんはその言葉を知り、環境問題の原点にあ   たる言葉と理解し世界に広め活動してる。消費削減、再使用、再生利用、修理の概念を一語で
表わせる「もったいない」、この日本語に我々は誇りを持つべき。
このように取り上げられている記事を総括すれば制度の見直しをと主張しているのでしょう。
また、テレビで日本マクドナルドが賞味期限改竄と報じています。

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