西暦2023年 皇紀2683年 昭和97年

今は、西暦で年を表記する様になり、若い人は年号(元号)使わないようになっていますね。
私などは生年月日は年号で言います。
新聞は今では西暦を最初に書き、その後の年号表記をするようになっています。
私が若い頃は年号が先で西暦は後に書いていました。
時代の変化とともに国際化が進んだせいか、西暦表示を使うように変わってきました。

この日刊工業新聞は、上野氏2代目とあるのは私の事で取材を受けて記念と残して置いたもの。
赤線の部分が示すように年号が先に書かれています。


表題に※皇紀2683年と書きましたが、これは年号で言えば令和5年に当ります。
戦前までは年号と合わせて使われていた年表示です。

神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本紀年法である。『日本書紀』の記述に基づき、元年は西暦キリスト紀元)前660年とされている。異称は皇紀(こうき)、神武紀元即位紀元皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんき)、日紀(にっき)等。ウキぺデイアより。
このブログを書く切っ掛けになったのが、ネットで観ていた、青山繁晴氏のYouTubeでした。
番組の中で彼が浦和大学へ講演に行った時「皇紀」の言葉を知っていた生徒がいたと嬉しそうに話していた。
青山氏が書いた漫画本はその由来、歴史を書いて、皇室の存在意義を知らしめるためだとか。

戦後教育ではマッカーサー指令により、古来より伝わる歴史書で皇室文化を教えてはならいと。
目的は日本人の基盤である精神文化の弱体化でした。

郷土史(喜界島小野津)神代(國の初り)
昭和14年9月25日発行
編輯兼発行者 小野津尋常小学校
鹿児島市長田町城ヶ谷
責任者 文園 彰
復刻版より

私も大学教養過程で歴史の授業の時、蔵並省自教授が100名以上は入っている教室の学生に向かって、今(昭和40年当時)の天皇は何代目かと問われた時、その問いに124代目と答えたのは私一人でした。

亡くなった母(大正12年生まれ)が歴代天皇の名前を諳んじることが出来たと自慢していましたが、昭和40年の段階で皇室の存在が薄まっている証でしょう。

現在は、学校で皇室の歴史を教えるのは単なる「豪族」扱いで程度しか教えていないとか。
青山氏は憂いて、漫画本で皇室の存在意義を知らしめるために啓蒙目的で書かれたようです。

かく言う私も戦後教育を受けた世代、当然で、自身で皇室の存在意義は何たるかと勉強して居なければこのようなブログは書かなかったでしょう。

その切っ掛けを作ってい頂いた方が124代昭和天皇陛下でした。
幼少の頃、千代田区飯田町に住んでいました。
町内にお触れが出て、何時ごろ天皇陛下が目白通りを通ると連絡があったのです。
戦前と違い、総出でお迎えをすることなく、自主的な判断で通りに出ていたと思います。
子供でしたので、用事もないので歩道に立ち、お待ちしていると、オートバイに先導されて、天皇陛下が乗っている車(ロールスロイスと思う)が眼前に通り過ぎます。
その時でした、一人でポツンと立っている子供(私)に天皇陛下が挙手してくれたのです。
小さな子供でも軽んじることなく、気に掛けてくれたことが一生の思い出となり、昭和天皇の人柄に惹かれ昭和天皇に関する書籍を読むこととなり、その偉大さを誰よりも知ることとなりました。

歴代天皇は、「仁」をもって政治を司ることが代々受け継がれていていました。
従い皇紀表示には大和、日本の成り立ちの歴史が関連付けられているのです。
仁政の例として「かまどの煙」が挙げられます。

 

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