戦場と瞑想 明治に生きた男の記録!

「戦場と瞑想」 サブタイトルが「若き日の天風 中村三郎の記録」著者 おおい みつる。

中村天風なる人物を知ったのは、合気道を通じて知ったかと記憶しています。その後、政界、実業界の名だたる人物に影響を与えた人と知り、大いに関心を持つ事となり、「ヨガ」を日本に伝えた人と言うことにも驚きました。

最近、知られる切っ掛けは、大谷翔平の愛読書「運命を拓く」の著者であることがインターネット記事より報道されたことに拠ります。
この本を読んでワクワクしたのが、第2章「爺の一声」でした。
天風自身が馬賊と決死の対決の記述部分。
時は明治36年日露戦争開戦前、満洲へ探査の目的で渡った時のお話。
合気道、居合等武術の稽古をしている関係上、真剣勝負はどんなものかと関心を持っていました。
命のやり取りはどんな戦い方になるのかと。

馬賊と遭遇し戦いを避けられない状況で真剣勝負が始まります。
仲間が三人、中村三郎、橋爪何某、剣道5段の近藤信隆、先ずは腕自慢の近藤が対峙し戦いが始まります。
はじめに対決した近藤が緊張で顔が引きつり顔面蒼白、これを見て天風が動きます。
以下引用、
「『だめだ!』と口走るや、仕込みの日本刀を振りかざし、馬賊の方へ2歩3歩とふみこんでいた。・・・略・・・この恐ろしい示威行動によって・・・略・・・『来るな』!三郎も、それを感じ取った。今や自分の命は風前の灯、もうだめか、と三郎は恐怖の一瞬が眼前にあると、観念したのであった。そのときであった。三郎の脳裏に強烈な閃光が走った。あることが突如として稲妻のように閃いたのである。それは『真剣勝負は、腕じゃなか。度胸(しいたまぞ)』とにらみつける、爺の顔であった。そしてまた、その鋭い目つきであった。それは驚くほど鮮明で、かつ強烈なものだった。・・・」

この爺さん、戊辰戦争に従軍し戦場経験豊かな古兵の一人、遠縁の爺さん、三郎(幼名三午)に会う度に経験談を告げていたことが役に立ったのです。
また幼い頃、剣道の先生に教わっていた事、「捨て身の時は大上段」と常々言われたことに体が反応し「勝ち」を得たのでした。
馬賊に勝った時の様子は・・・青龍刀の動きを見取って、ゆっくりと大きな円を描いた時、
「<今だ!>
と三郎は、大上段から夢中で踏み込んでいった。
はっと、われにかえったとき、馬賊は青龍刀をだらりと下げ、三郎にのしかかるように倒れてきたのである。あわてて三郎は後へとびのいた。すると馬賊は。その巨体をゆっくりとががめ、両膝を地につけると、そのまま静かに前へ伏せていったのであった。」

幼い時の教育の重要さを感じます。
この記述に「尚武の気風、こころ」の意義の大切さを感じ取るのです。

この明治初期、御維新で大きく体制が変わりましたが、士族の遺風が語り告げられていたからこそ、ロシアに勝利したのでしょう。
極東に位置する、小国日本が日露戦争に勝利したことは、西洋列強国からしてみれば腰を抜かすほどの出来事、植民地統治下のアジア諸国からしてみれば驚嘆に値する大事件でしたでしょう。
その背景にはそれを支持する世論があったればこそと思います。
本には次のような記述があります。
「これも時代の差、としか言いようがないが、十五、十六と言うような齢でも、国家の役に立つ、あるいは天皇のために働くということが、無上の事として受けとめられる。明治というのはそういう時代だったのである。これが一つの明治の気骨ともなっているので、これを抜いてしまうと、その言動のすべてが理解できなくなってしまう。別に、三郎が特別な愛国者だった、というわけではないのだが」

国を思う、公に尽くす精神が軍国主義の繋がると戦後の「平和教育」で「社会の恩」を忘れ、利己主義に変わってしまった今の日本、国家が存続するためには何が大切かと気づかなけらばいけないのでは。
中村天風自身の体験から、「心法、心術」を教え、人生を切り拓く手段をこれらの著書で説いています。


天風の教えを一言で言えば「前向き」に生きるとなるでしょうか?
心にある負を払拭し正の心を持つような生き方をしなさい。と説いているように思います。
人生で色々な局面に出会いがあり、その時にその局面をどうのように捉えるかです。
それが成長の切っ掛けを生むと思えるか思えないかで決まると教えていると思います。

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