満州国建国!

私等の戦後の教育では、日本が満洲に侵略して満州国と建国し、皇帝に溥儀を即位させ傀儡政権とした国と教わったような記憶があります。

昭和7年~昭和20年まで存在した国。
当時、傀儡政権とか西洋列強国から批判も受けていた国際情勢と記憶しています。
まだ農業国であった日本、農家の次男、三男が畑が持てると大きな希望を抱いて満洲に向かったと聞いています。

「満州国(まんしゅうこく、旧字体:滿洲國、拼音: Mǎnzhōu Guó)は、1932年(大同元年)から1945年(康徳12年)の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。「」が常用漢字でないため、日本の教育用図書を含め一般的に「満国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満国」が用いられる。
帝政移行後は「大満州帝国大滿洲帝國)」(だいまんしゅうていこく)あるいは「満州帝国滿洲帝國)」(まんしゅうていこく)などと呼ばれていた。大日本帝国(朝鮮、関東州)および中華民国、ソビエト社会主義共和国連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。中国、日本、ソ連の3国間の緩衝国。」ウキぺデイアより。

ネット記事による満州国の説明では、その当時の民衆の考え、暮らしぶりが見えてきませんが、
この小冊子に日本軍の支配下にあった時代、民衆の暮らしぶりがうかがえる記述があります。

ここに書かれていたのは印象的には真逆な、いい国との評判、当時の国策の一環でしたが明らかにその反映が見て取れます。
「五族協和」の大義。

「さらばホロンバイル」の小冊子に当時の満州国の治安の良さを示す記述がありました。
この小冊子、ソ連が不可侵条約を破り満洲に侵攻して、満州国がソ連の支配下になった頃、筆者(陸軍中野学校出身)が日本へ逃げ帰る物語が書かれていたものです。

私子供の頃に歴史で教わった傀儡政権の話とは違うなと思ったのです。

次の通りです。
・・・新京はソ連軍と国民党政府軍で占領政治何が政治だ、行政だ、泥棒と賄賂の、まるで13年前に逆戻りです。
いや、それ以前です。民家を見よ、塗り潰された、窓、入口、昼路上で女を襲う、ソ連兵達、民家に民家に入る、
商家に現金を盗み物品を略奪するソ連兵集団、これが共産主義の本質か、

何が、開放だ、史上最悪の軍隊だ、一つの手続きで賄賂を求める警官達。

一の真心は満洲映画協会理事長 甘粕正彦さんの「青年に期待する」遺言を残され自決、
民衆に縁る葬儀と永ん~永んと続いた行列の話と墓に絶えずに線香が炊かれているいる事、その墓の前で自決した一日本人、私が命令しましたと責任をとった事件、
甘粕さんに恩義のある元憲兵下士官でしょう。
新京の日本人難民収容所を特機(特務機関の略称!?)の家族を探しに歩く。

12月20日頃、新京からーハルピンえ、新京駅の窓口で、切符を売ていない(売られていない)、ソ連兵が現金を公然と奪うから。

改札口に駅員が一人抱け(だけ)、ホームを指さす、ハルピン行きの列車に乗る、満員です。
床にあぐらをかく、列車が走りだすと車掌が赤と緑の旗を巻きながら入って来た。
君は日本人だな、
はい、そうです、瞬感、袋叩きか、半殺しと覚悟する、なぜそこにいるこっちに来なさい、と車掌席の隣にかけよ、と言う、有り難う、あやふ(う)く涙が落ちそうに成る、
どちらまで、ハルピンに家族を探しに行きます。
あい(え)れば、いいがな。
やがて車掌は、ソ連軍より日本軍の方がよかった、我々を襲うたり、物を盗んだりしない安心して通勤、商いが出来た。
赤鼻の野狼、タービンズ、泥棒野狼めあんなのは、軍隊でない、匪賊だ、馬賊の集団だ、
そうだ~そうだ、沸(あふ)れる様な拍手でした。
中国では「よい鉄は釘にしない、よい人は兵士にしない」と、言ふ(う)、諺がある、にも関わらず、関東軍を讃えていた。
※関東軍の風評とは違う。
私を、この人は家族を探しにハルピンに行くが逢い(え)れば良いがと、紹会する、多さん(たくさん)の人びとから、リュックにいっぱいパンをもらう。
横田は、車掌に、
貴方は満州国の13年間を色々讃得ていましたが、先ずは、五族協和、治安がよかった、教育、鉄道だね、列車が時間通り正かくに走る、一番の功責(績)は貨幣制度です、満洲銀行券です。
ソ連軍も、国民党軍も、ハルピンでは共産党八路軍も認めざるを得なかった中国の歴史上初めての痛快事です。
政府が変わる度に民衆が損したが、この度は百円は百円で通用した、まったくか貨幣制度に無智であった横田はビックリした。
我々の13年間と、五族協和を、日本関東軍の評価、拍手、を、
あの山、この森、草原に倒れ、永眠せる。戦友よ、この話を、拍手を
心あらば聞け、霊よ、受けよ、もって銘せよ。

素晴らしい旅、いや車中であった、

ハルピンに到着、車掌に有り難うお金はいくらでしょう
いいよ、家族に会える様にね、窓から手を振る人びとに、ホームで深々と頭をさげる・・・

※原文のままで、送り仮名は現代使いを( )に入れました。

これを記述したのは、この小冊子を書き残した筆者の思いを察すると戦後誤解されている面を正しく知らせたいのではなかったのかと!?
近現代史の見直しのために。

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