杉野兵曹長は生きていた、旅順港閉塞作戦。

日露戦争時(1904年 明治37年)のお話です。
旅順港口に船を沈めて航行が出来ない様に(海上封鎖作戦)と行った作戦。

この物語は第2次閉塞作戦時の起きた事です。船を沈めようとその船から退艦する際に杉野二等兵曹長が見当たらず、廣瀬中佐が戻り、艦内が探す際に「杉野はいずや」と叫びながら探し、見つからず退去するためにボートに乗り移った時、廣瀬中佐は大砲に当り戦死、一瞬に消えたそうな。
この場面は「明治天皇と日露大戦争」で見た記憶、廣瀬中佐を宇津井健が演じていました。
本の記述によると福井丸を爆破し沈めた現場から離れて行く際、敵の哨艇の追跡を受け、速射砲が当たって残ったのが「銅貨大の肉片と海図」だけだったと。
この作戦の軍功により、神田万世橋に明治43年(1910年)に銅像が建てられ、廣瀬中佐と共に杉野二等兵曹長は軍神となる。
小学校時代、靖国神社の大灯篭のレリーフにこの話が描かれているのを見たものです。
子供の頃から関心があった為、23年ほど前に買ったのです。
後にインターネットを始めて調べたら、見つかった記事がこれです。

ネット記事より。

この記事に「横田正二」と出てきたので「あっと」驚いたのです。
北海道の今は亡き友人からもらった体験記「さらばホロンバイル」を書いた人だったのです。
この偶然に驚きました。
戦後は東京神田万世橋にあった二人の銅像撤去され今はありません。
GHQに言わせると「軍国主義」の象徴になるからだそうです。
この言葉、戦後の造語だそうです。
これ以降、日本人は戦死者、軍人さんへの敬意をわすれ、この75年「平和憲法教」を信心し、現実が見えない国民になりました。
平和、平和と唱えていれば大丈夫だそうです。

横田さんも「五族協和」の為に戦った。
体験記の最後には傍線部の様に綴っていました。

いまでも東京裁判史観から脱却できず、隣国から振りまわされているままに。

なんら法的根拠がない東京裁判、アメリカの「見せしめ」で、茶番でしかすぎず、法的根拠に基づき無罪を主張した本、「パール博士の日本無罪論」を読んで大東亜戦争で見直すべきでは!

 これも参考になります。

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