8月中旬の奄美民謡の稽古日、教室へ着き準備をしていると、稽古仲間の一人から先生がお呼びですと声をかけられました。
何の用事かと思いつつ、先生に声を掛けたら、差し出されたのが詩集でした。
本題は「詩人の引力」、この詩集を出した方、先生のお知り合いですが、
私も多少のご縁もあり「是非、買ってくださいと」言われ、一冊買い求めました。
その後で、ある事を思い出し、もう一冊買いますと告げ、二冊買うこととなりました。
「ある事」とは叔母この猛暑で体調を崩したと聞いていたので、この本を贈って元気付けようと。
実は著者は私の叔母の同級生であり気分転換になるのではと考えたのです。
私、この方とのご縁は3、4年ほど前の奄美民謡教室発表会後の懇親会で知りあったのです。
当然、その時まで同級生であることは知りません。
切っ掛けは、「あなたの出身は、どちら」と聞かれたことから。
「私の両親が、喜界島出身です。私はこちらで生まれましたが」
その方、同様喜界島出身、私の姓から「○○○さんのご親戚」と聞かれ、
「そうです、甥です。」と答え、その場で叔母さんに電話をし、こういう方と知り合いましたと告げ、電話を代わりました。
電話の会話の様子から、お互いが楽しそうな雰囲気伝わってきます。
年はとっても、同級生(後で分かったことですが一級下でした。)はいつまでも懐かしく、特別の関係なのだなと様子から感じ取れました。
2人とも、尋常小学校高等科で同級、叔母は郷里喜界島で教員として勤め
、同じ職場でその方と再会し1年ほど共に勤務したとの事。
そんな関係ですから、懐かしさもひとしおだったのでしょう。
電話が済んでから、その方、私にこう言いました。「私はあなたの叔母さんに思いを寄せていたんです。」、
齢80の方の告白を聞いた私、ほのぼのとした思いが湧き、
後で叔母からは、「その時、久しぶりにときめいた」と告げられた事がありました。
冒頭お話しましたように、そんな経験があったことが詩集を買うように薦められたのです。
叔母に本を送る準備を済ませていたのですが、発送が遅れていました。
その状況で、知らぬ間に民謡の先生が気を使って直接著者に電話をして、
署名入りで詩集を送ってくださいと頼んでいたのです。叔母が体調を崩していることも言葉に添えて。
中旬過ぎのある夜、叔母から電話がありました。
著者から手紙を添え、謹呈と記して詩集を送ってきたというのです。
手紙には、叔母を気遣った文言があり、どうして知っているのか、どういう理由か知りたかったのでしょう。
民謡の先生の気遣いと経緯を話して分かってもらえました。
著者から手紙が届いたその日に電話があって、長話をしたと言っていました。
同級生としていろいろ、尽きない話題があるのでしょう。
手紙には昨年、発表会で私が歌った「行きゅんにゃ加那節」がとても良かったと書かれていますよと教えられ、ちょっといい気分でした。
叔母にとっては喜界島に触れた詩「島の馬たちの鎮魂歌」を読むと、情景が浮かぶそうです。
小学校の校庭で、馬の「せり」が行われ、その仔馬は軍馬として徴用され本土に渡ります。
その頃の日本、中国大陸で戦っています。
軍歌「麦と兵隊」、徐州、徐州と人馬は進む、徐州いよいかすみよいか、洒落た文句に振りかえりゃ・・・・。
このようにして軍馬は集められていたのですね。
当時、馬を飼い育て、売れるといいお金になったそうです。
家族同様に育てた仔馬。
伝馬船に乗せ沖がかりの親船まで運ぶとき、桟橋での別れのシーンは家族同様悲しいもので、その情景は今でも覚えていると言っていました。
叔母も、同様短歌の詩集「浜木綿」を出しています。
私、叔母さんにお礼にその本を贈ればといったのですが、手持ちがないとの事。
思い出したように、あなたのお父さんに後からもう一冊送ったことがあるというのです。
家に2冊あるなら、1冊送り返すからそれを贈呈すればいいと話しました。
叔母、電話でその内、著者が書いた手紙を見せたいと言って電話を終えました。
その数日後、叔母から手紙が届き、開いてみると今回の出来事に対してのお礼が述べてありました。
歌集「浜木綿」が届いたこと。
それと、私の島唄に触れて、「島ぐらしの体験がない恒ちゃんがそれを伝える生命力(※スラ+努力)をしみじみ思いこのオババ誇らしい・・・」とあり、甥として嬉しい文言でした。
昨年の発表会の時に、その方からあなたの唄は、「ハートフル」と直にいわれていた事とあわせての思いです。
※ スラとは方言で「血筋」という意。
おそらくそう思ったのは、私の祖父(母方)他に、叔父2人、母の従兄弟がサンシンを嗜み、お袋は唄が上手なので。
それに、コピーされた著者の手紙と、他に自身が所属していた会(短歌のグループ)の月刊誌に載せた「わがふるさと 珊瑚礁の島」の記事のコピーも添えられていました。
島のくらしの理解にと送ってくれました。
当時の島の情景の説明に引用し紹介したいと思います。
「『ヤマトカラフネガクダッドー』。
叫ぶようなその声に、港の空気が鼓動をうちはじめる。ボーと汽笛をなしながら沖かがりした蒸気船目指して漕ぎ出すいく艘もの伝馬船、下船してくる身内を迎える人の群れ、荷物を運ぶ為の馬、馬等で桟橋は大きく興奮に包まれる。単調ないつものくらしには見られない生活の哀歓が期せずしてそこにくり拡げられるひとときでもある。又上がり船で鹿児島に出ていくヤマト旅は、島の若者にとって最上の願いであると同時に、いつ帰れるかという別離の門出でもあった。旅立ちの朝は必ず別れの盃を交わして家をでるのが慣いである。
(島では内地のことを今でもヤマトと呼ぶ)
薩摩時代から海の難所として恐れられていた七島灘を無事に越えてつつがない旅を願う島人の熱い思いは今も昔も変わらない。命の綱である船が来なければ絶海の孤島となる宿命の島である。・・・・・」。
因みに、嘉永6年ペリー提督が琉球から伊豆下田に向かう航行中、はるか洋上に浮かぶ喜界島を見て、「クレオパトラアイランド」と呼んだと書いてありました。
この記事を読むと、子供の頃昭和20年代、わが家を頼って上京してきた叔父、叔母の思いが伝わって来ます。
私の両親、今思えば所帯を持ったのが昭和18、9年ごろ父は本土で働いていたのですが、
母は結婚するため制海権のなくなった東シナ海を渡ってきたのかと思うと、いつアメリカの潜水艦に狙われるか不安に感じながらの航海だったのでしょう。
当時の若者、先に上京した先輩たちの成功を聞き、俺も、わたしも「青雲の志」を胸に、ヤマトに旅立ったのでしょう。
いつか、「故郷に錦を飾りたい」という思いを抱きつつ。
私の両親がそうでした。
強い決意と、大きく膨らむ夢を成就したいと願って、だから母も危険を冒してまでも本土へ渡ったのでしょう。
この思いは、私にも多少なりとも引き継がれました。
最後に詩集「詩人の引力」から、著者が回想しながら創った詩を紹介します。
・・・早町小学校の校庭で検査を受けた子馬たちを思い・・・
著者、1926年生まれ、戦場で命をなくした軍馬を思い創られた詩です。
島の馬たちの鎮魂歌
あの緑の小島の
明るい日光のなかに
多くの子馬たちが生まれた
彼らはただ生きている喜びで
狂喜し、走り、飛び跳ね
青空の下の最も清い空気を吸い
青い青い海のそばの
石ころや土を蹴って走り回った
しかし大きくなると
黒い船が水平線の彼方からやってきて
彼らを見知らぬ土地へ
運び去った
彼らはそこで馬具をつけられ
重い重い荷物を引っ張るように仕込まれた
そして彼らはもう一度遠く運ばれた
こんどははるか大きな船で
運ばれていった
彼らがうれしそうに走り回った島では
見たことのない火の玉が
爆発し
人間たちが殺し合っているところだ
やさしい馬たちは重い荷物を
引っ張って山を登ったり斜面を下りたり
雨や雪のなか泥沼にはまりこんだりした
ついに疲れ果て
飢え
あるいは敵の弾丸で頭をぶち抜かれ
みんな死んでしまった
彼らの生涯の
最後の瞬間に
かすかに嘶き
恐らく生まれた島の
きれいな青空を思い出しながら
私、18歳、昭和40年に喜界島に行ったことがあります。
一度は両親の故郷を見たいと思い。
訪れた時の島の情景を回想すると「詩」にあるように、
空、海はあくまでも青く、
高い丘に登れば四方に海が望める、
夜は満天の星、水平線まで星がかかっている、
天空に天の川がゆったりと流れ、
悠久の時を感じる、
曇り空の夜、漆黒の闇、
まさに一寸先が見えない、
大自然にゆだねる珊瑚礁の島、
ただ、都会生活に慣れた私、
住みたいとは思えなかった。
母から、離島苦の話を聞かされていました。
叔母が、思い出に書いた記事にあるように
若者はヤマトにあこがれたのでしょう。
参考資料
詩集 詩人の引力 著者 郡山 直 出版 コールサック社
名刺の肩書きこう綴っています。
英詩人
翻訳家
奄美民謡研究家
今でも、某大学で名誉教授として教壇に立つ。
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