奄美民謡教室の会長さんが、ある時、酒の席で奄美、沖縄の人々が本土で働くようになったのは第一次世界大戦(1914~1918年 大正3年~大正7年)の特需が起こり労働力不足となり、それが切掛けになったと話されたことがありました。
亡くなった親父の叔父さんが上京し、昭和の初期頃に池袋に塗装工場を起こし、事業を成功させた時期と関連があるのかなと、ふと思ったのです。
親父は、その工場で塗装技術を習得します。この経験が後々昭和35年に塗装工場を興すことになります。
この特需で一番潤ったのがアメリカ、その次に日本だったと記憶にあります。
当時の経済情勢がどんな様子だったのか知る上で、「大正・昭和 財界変動史 上巻」から引用したいと思います。
その頃の経済情勢の特徴的な記述を選んで説明します。
著者は冒頭、こう記述しています。
「顧みるに、大正・昭和(太平洋戦争前まで)におけるわが経済の長足な発展は、正に世界経済史上稀に見る一大異彩であった。・・・・・中略・・・・事実、
第一次大戦という僥倖を抜きにしては、大正・昭和におけるわが経済の大発展は到底考えられない。・・・」
この記述から、推察できることは工業国へ変貌していく日本、そして事業意欲に燃える人たちに起業の機会を提供し、産業基盤の裾野を広げられた時代、そのような趨勢の中、親父の叔父さんも事業家として立ったのでしょう。その頃、1929(昭和4年)から33年(昭和8年)のあいだ世界中の資本主義諸国を襲った史上最大規模の世界恐慌が起きています。それも乗り越えられたのでしょう。年齢から察して明治生まれ、気概と気骨がある青年だったと想像されます。
次に、
「・・・ここで、まず、詳らかにしたいことは、以上のような大戦景気の沸騰が右の時期において、何故発現したか、その基盤事情についてである。思うに、かかる基盤事情となったものは、第一は大戦の大規模なることと、その長期性とに対する認識が五年(注:大正五年のこと)以降いよいよ一般化したことである。第二は前掲引用にあるが如く、各方面にわたり、積極的経営者が成功して『成金』的巨富を得たことが強力な投機的刺戟となったことである。最後に併し最も重大な基盤事情の第三は、わが経済の基盤事情そのものが、大景気来の相貌をいよいよ明確に現示するに至ったのである。・・・」
「大景気来の相貌」の意味を簡潔に言えば、そのお陰で輸出などで各産業が高収益をあげ、国として国際収支を好化し明治末期、国家財政逼迫の状態から脱皮できた状態を言っています。
<追記> 1/19あるテレビ番組で、明治、大正時代日本がドイツからブリキのオモチャの製造技術を学び生産するようになってた頃、この戦争でドイツは生産できなくなり、日本が取って代わりブリキオモチャノの輸出大国になったと報じていました。
「大戦景気の沸騰」という文字が使われていますが、日本経済、高度成長期の活況とバブル景気が重なった位の景気だったのでしょうか。
本土で労働力が必要になった理由が想像できます。
昭和60年代、バブル景気に突入した時期に労働力が足りなくなり外人を使う必要が生まれたことを思い出します。
高度成長期、農閑期の間、東北地方の人たちが出稼ぎに上京したことも同じ現象と思います。
そんな時代背景の中、何が奄美の人々を本土へ向かわせたのでしょうか。
両親から聞いた話では、貧困、離島苦(生活環境の悪さ、不便さ)から逃れるために親類、縁者を頼り上京したと聞いています。
今では、奄美はリゾート地、観光地として変貌を遂げています。またそんな環境で天然、自然があり、逆に本土の人が奄美に移住するようになっています。変われば変わるものです。
会長さんの場合、30歳年上の兄さんが、大正か、昭和の初めに関西へ行っています。
会長、自分は末っ子といいましたが、30歳の年の差には驚きました。
「産めよ、増やせよ」の時代を感じさせます。
お兄さん淀川製鋼に勤務し、鉄を溶かすコークス炉の仕事を担当していたそうです。
その職場環境は、熱さで劣悪なので大変なのですが、手当てが良いため稼げるのでその仕事に就いたと説明がありました。
暑い所で育っているせいもあり我慢が利くのだとは会長さんの説明です。
なるほどと納得しました。
その兄さん戦後独立して、毛織の工場を経営していたそうです。泉大津というところです。紡績関連の仕事が盛んな場所、多くの人が働いているので、仕事柄染料が身体につくために、その頃の銭湯は湯が赤く染まるほどだと思い出話をしてくれました。
しかし、日本では繊維紡績などの仕事、後進国に取って代わられ早くに衰退したと話していました。
本人は、昭和28年に※ヤミ船(密航)に乗って上京を果たします。
※ 当時はまだ、奄美諸島はアメリカ領でした。(密航で捕まると懲役1年が課せられたとは、あるテレビ番組で最近知りました。)
子供の頃、お兄さんから折にふれ贈り物が届いたそうです。
小学校入学祝に学生服を贈ってもらったのですが、お兄さん寸法が分からず袖に手が隠れてしまうほど大きい服だったと語っていました。
奄美の人々が本土へ移住した時期について、「奄美、もっと知りたい」という本にこう書かれていました。
「関西には、奄美出身者が多い。現在(1997年)、二世、三世も含めて約40万人が住んでいるといわれている。とくに1920年代から、離島苦を逃れ、新天地を求めて関西に移住する人々が多かった。ちなみに、沖縄出身者も関西に多い。なぜ、東京でなく、関西なのか。近代的な装いの下で「周辺」に対する底知れぬ「悪意」を隠した帝都よりも、雑多な街、関西のほうが、暮らしやすかったのではないだろうか。そしてその流れは、数十年後のいまも続いている。・・・」
会長さんの話と「本土」に行く時期が符合しています。
そういう流れの中、親父は尋常小学校高等科卒業(学制でいえば14歳の年齢)と同時に叔父を頼って上京し(大正11年生まれですから昭和10年頃と思われます)、叔父さんの塗装工場で働くようになります。まだ、徒弟制度があった時代です。
20歳で年季明けした時、従業員と一緒で中央に親父が座って写っている記念写真が残っています。
工場を造った叔父さん、やはり大正時代に上京していたと思われます。
私の叔母によれば、ブラジルへ移民する予定だったのが、「占い」で良くないとでて、日本に残り東京へ行くことにしたと語ってくれました。
ある工場で働き、塗装技術を覚え独立し、昭和の初めに工場の設立を果たします。
親父の叔父、結婚は30歳(当時では晩婚の方だと思います)過ぎてからで、その間一生懸命働いて資金を貯めたのでしょう。
当時、取引先の会社に「東京光学(今もあるかもしれません)」があり、そこの製品、カメラ、双眼鏡などを塗装していたと叔母より聞きました。
叔母も、同様卒業と同時に叔父を頼って上京しています。
その工場では毎晩のように、徹夜で仕事をしていたと言っていました。
叔母が上京した頃、昭和16年頃と思われますが、カメラ、双眼鏡の塗装をしていることを考えれば、軍需が大きく影響していたと考えられます。
叔母が、喜界島にいる時、叔父は盆、正月には靴、洋服、お菓子などを送ってくれて、お菓子など、当時、喜界島には無く叔母は子供心に自慢したそうです。
親父はその工場で、パテ職人として働いていたようです。
当時は、鋳物でしたから、巣穴がたくさんあり素地調整のために埋める必要があり総パテ付けになりました。
最近、本社の事務所にある戸棚をあけて、親父が持っていた「タンバ」を見つけました。以前から何処にいったのか分からなくなっていました。
いわば、親父の形見でしたので見つけられ安心した次第です。
タンバは刃物で、小刀と同じですが、ヘラを作るために使うので切先と刃が独特に作られています。刀身に龍の彫り物があり高価なものだと思われます。
写真1
長さ 41cm 刃渡り 24cm 幅 3cm
写真2
これがヘラを作る木で、材質はヒノキです。
ヘラを作る技能は、一品でした。
集団就職で、入社した社員がまだ働いていますが、その見事さは真似が出来なかったと言います。
ヘラなどは市販されるようになっていたので、作ることは無くなりましたが、
若い頃覚えた技能に愛着があって、タンバを持っていたのでしょう。
戦災でその工場は焼失します。勤め口がなくなった親父は、戦後女房、子供二人を食わせるため、露天商、ノート売りの行商をしながら資金をためて文房具屋を始め、ほぼ10年間それで生計をたて育ててくれました。その頃、親父、おふくろの兄弟が頼って上京してきました。
前述しましたが、まだ奄美は本土復帰をしていません。ヤミ船に乗っての密航です。
小さな店でしたが、いろいろの人達が店で働いたり、仕事が見つかる間、居候する人がいたりして賑やかでした。その頃、出会った人達を懐かしく思います。
この頃、日本は朝鮮戦争(1950~53年 昭和25年~昭和28年)の特需で、戦争で疲弊した産業が息を吹き返して高度成長期を迎えられる産業基盤が出来上がります。約40年前の大正期と同じ現象です。
その後ある事情で、昭和31年に店を閉め、数年間、塗装工場勤めした後、塗装工場を始めました。その年が昭和35年でした。
「戦後は終わった」といわれてまもなくの頃、モノ造りで輸出が盛んになり日本が繁栄して高度成長を遂げる時代にさしかかる頃です。
参考資料「大正昭和 財界変動史 上巻」 著者 高橋亀吉 出版社 東洋経済新報社
「奄美、もっと知りたい」 著者 神谷裕司 出版社 南方新社
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