今回の経験で更に新聞報道の仕方に疑問を持つようになりました。
最近では、朝日新聞の鳩山法務大臣に対して「死に神」報道、コラムでしたが揶揄するだけの印象と新聞側の傲慢さを感じていました。
中山国交大臣の問題提起した発言の表現(用いた言葉が良くない)だけに注視し失言と決めつけ、見識者といわれる御仁のコメントを掲載するだけで終わりにしてしまいました。
私から見れば、中山大臣の発言の中で、教育の根幹的問題の提言もありましたから、これから更に論争されるべきと感じていました。
しかし、それっきり、何かがおかしい。
そしてその思いが、再び、「教育長が酔って暴行」9月13日、17日の記事掲載について毎日新聞西支局に問い合せをさせる気持ちになったのです。
知り合いの方、3人からブログの感想文も寄せられていました。
ブログ文末に感想を聞きたいものと結語して置いたからです。
その方々も、私の見解に賛意を示す形で感想文を書かれていました。
それぞれの感想文を要約すると、
○取材の仕方、事実報道をしなければならない立場にいる者が誤認していること。
○教育面で現場の教師が、体罰、躾と言う狭間で悩んでいる。
○ 日本人の道徳の低下
○ 地域ぐるみの子供の教育が出来にくくなっている。
などでした。
私自身、事件の扱い方に違和感を持ち、払拭しきれずモヤモヤしていたことも、
その動機となっています。
新聞社から見れば一事件として扱ったのでしょうが、当の本人は教育長として職業上の自覚、人柄から成せる善意の行動です。記事にその配慮がなく皮相的な記述となっており、それが許せません。
県警からの又聞でなく、記者が直接、当事者(教育長、飲酒と喫煙をしていた少女、反抗した若者、未成年の少女に酒を飲ませたであろう居酒屋の店主)から取材をして生の情報から記事を書く姿勢と見識があればあのような見出しにはならないと思います。
教育長に直接、取材していれば人柄が理解でき、注意した行動の背景に彼の人生観が垣間見られたはずです。
そのような取材であれば「教育長が、酔って暴行・・・」とは書けるはずがないと思います。
教育長の名誉のためにも、居合の友人が教えてくれたエピソードを紹介します。それは、教育長の立場で成人式に参列した時、ある青年が歩み寄り教育長に感謝したのです。「あの時、教育長から注意を受け目が覚め、自分を反省して立ち直り、大学まで行く事ができました。有難うございました」と。
普段から、喫煙、飲酒をしている未成年に気付けばその度、注意をしていたのです。
今時、とても大切な方と思う反面、記事でその職から辞さなければならなくなったのが悔しいのです。
西支局に電話で問い合わせをしたところ、なかなか繋がらず、待っていると転送され電話が繋がりました。
電話に出た方に、姓名を名乗り問い合わせの主旨を告げ前回電話に出られた方を電話口に出して下さいとお願いしました。
電話が転送されているので本人は不在と思いますとの返事でした。
出た方に、問い合わせ内容を答えて貰おうと、名前を聞きました。
Kと名乗りました。記事を書いた本人だったのです。
内心「シメタ」と思いました。
なぜなら、前にも述べましたように新聞社は記事を書いた本人には問い合わせに対し対応させない事になっていたからです。
先ずは、世代確認と思い、年を聞きいたところ、29歳と答えました。
なぜ聞くかと言えば、時代背景から価値観構成がある程度、推量できるからです。
次の質問をしました。
『9月13日の記事と17日の記事の内容が違っているが、17日の記事が正しければ、13日の記事は事実誤認しているのでは。』と。
返事は取材の結果『17日の記事内容となりました』と来たのです。K記者の気配から、なぜいけないのかなと言う雰囲気が電話から伝わりました。
私はつかさず、『それじゃー、13日の記事は誤認、誤報となるでしょう。テレビでも間違えた場合、訂正とお詫びを入れますが、どうするんですか』と聞きました
更に続けて、『教育長、この方前々から良かれと思い、このような注意を日常的にしていたのですよ、注意された本人が悪いのに逆らう事自体おかしいでしょ。真夜中一時まで遊ばせている親の保護責任、未成年の少女の酒を飲ませただろう居酒屋の責任は、未成年の少女の飲酒喫煙はどうなんだ』と言いました。
このような抗議を受けることは予想外だったのでしょう
返答は『・・・』です。
更に私は続けて聞きました。
『なぜ返事をしない。記事を書いた本人だろ、まして記事に署名をしているのだから見解を話す責任はあるだろう』と。
返答はこうです。『署名入りの記事でも、社として書いた記事ですから』と言い逃れるのです。
私は『記事が誤認である以上、訂正とお詫びをすべきでは、また13日の記事を全国版で記載し、正しい方の記事はなぜ埼玉版なのだ』と質問しました。
K記者が言うに『記者としては、返事しかねます。改めて担当者から返事します』と言うので、これ以上埒があかないと思い、こちらに電話をくださいと、
電話番号、社名を告げました。
最後に『以前、さいたま支局に問い合わせをした時、後日連絡をしますと言いながら、連絡がなかったことがあった。新聞社としての役割を考えれば不誠実だろ、今度は無い様に』と言って電話を切りました。
多分、今度も回答は来ないように思えます。
何故なら、ここ数回の記事の問い合わせに対して、電話に出た方々、4名ですが、困惑している様子が、伝わってきました。記事についての問い合わせに対しどのように対処するか、支局の方々に無い様に思えるからです。
この記事を書いた記者、29歳と若くジャーナリストとしてどうあるべきか考えを持ちながら仕事をしているとは思いますが、正確な取材をしなければならないという強い思いは、記事からは読み取れません。
新聞ネタとして、面白いぞと言う程度で書いたように思われます。
私の詰問に窮したことから、記者としての認識の甘さを露呈した感じがします。
最近、テレビ、新聞など報道メディアのあり方に対し、関心が高まっているのか、本屋で「ジャーナリズム崩壊」と言う本を見つけ、私自身今回の経験も手伝って興味を引き、購入しました。
内容は、欧米と日本の新聞記事の書き方、取材の仕方との違いから、日本のジャーナリストは、ジャーナリズム本来のあり方にすべきと書いています。
違いとして、記者クラブ制度による取材の閉鎖性、記事掲載責任の不明瞭、新聞社取材の横並びなど、がありました。
今回の問い合わせでも、署名してあったので、K記者に記事について質問した時、「署名しても社として書いた記事なので」と言い、説明をもらえません。
著者が言う、記事掲載責任の不明瞭がそれに該当するのでしょう。
ただ、記事に署名している新聞社は毎日だけと書いてありました。
また、クレジットと言う言葉がありました。こう説明しています。
「例えば、記事中の引用にクレジット(引用先)を打たないのは、日本のメディアだけである。それは悪しき商慣行であり、海外ならば即刻、訴訟の対象になるであろう。」
毎日新聞は県警からそのニュースソースを聞いており、記事のクレジットを明記すべきなのでしょう。
記者クラブの存在が、外国人記者、フリー記者の取材を阻む壁になっているも書いてありました。
その本の中で、朝日新聞 鳩山法務大臣「死に神」報道に触れ、問題点を指摘しているので長くなりますが引用し紹介します。
「朝日新聞『素粒子』の(死に神)報道2008年6月、朝日新聞は、死刑執行を繰り返す鳩山邦夫法務大臣についてこう記した。
永世死刑執行人 鳩山法相。「自信と責任」に胸を張り、2ヶ月間でゴーサインを出して新記録達成。またの名を、死に神(夕刊「素粒子」2008年6月18日付)
翌19日、鳩山法務大臣は記者会見の中で、すぐさま反論し、自分は「死に神」でないし、そうした記述は「執行された方に対する侮辱だと思う」と激しく抗議した。
これを受けて、朝日新聞には1800件を超える苦情が押し寄せる。当初、「とくにコメントはありません」としていた朝日新聞だったが、あまりの反発の多さに弁解に追われることになる。
鳩山法相の件で千件超の抗議をいただく。「法相は職務を全うしているだけ」「死に神とはふざけすぎ」との内容でした。
× ×
法相のご苦労や、被害者遺族の思いは十分認識しています。それでも、死刑執行の多さをチクリとさしたつもりです。
× ×
風刺コラムはつくづく難しいと思う。法相らを中傷する意図はまったくありません。表現の方法や技量をもっと磨かねば。(夕刊「素粒子」2008年6月21日付)※ 私は、この記述にとても新聞サイドの傲慢さを感じるのです。果たしてこれが、「訂正」と言えるだろうか。謝罪の言葉は一切なく、「風刺コラムはつくづく難しい」と他人事のように感想を述べているだけに過ぎない。
さらに、表現の方法や技量をもっと磨かねば」と書きながらも、懲りずに「法相のご苦労」と話している。「ご苦労」とは、主として目下のものに対して使う言葉であり、また、他人の無駄な骨折りを嘲る意味にも使われることをこの記者は知っているのだろうか。
なにより問題なのは、これだけの騒動が起きてもなお、自らは安全な「匿名」の世界に逃げ込んだままで、一切正体を明かさないこの記者、及び朝日新聞の姿勢である。
果たして、こんなコラムをコラムといえるだろうか。そもそも無署名でのコラムなど許されるわけもない。仮に海外の新聞でこうしたことがあったら、逃げずに訂正するか、もしくは表現の自由を賭けて徹底的に論争を挑むであろう。いずれにしろ、中途半端なのである。」
私も著者の考えにまったく同感です。匿名にして名を隠す態度は卑怯です。
テレビ報道で橋下知事の討論会を見ましたが、彼が真剣に教育問題などについて話している最中、語気が強くなっていた状況をテロップで「キレる」と表現していました。
私から見れば、熱意が強い分だけ声が大きくなっているだけで感情に乱れはなく、言葉にはしっかりとして筋は通っている。それをなぜ「キレる」と扱うのか、私にはテレビ報道する側のからかい、揶揄としか思えません。
何か、思想的信条だけで、状況を観ているように思われてなりません。
毎日新聞の記事を読んだ時、記事に書かれた方が知り合いだったことが、書き方に不審を抱く結果となったのでしょう。これが知り合いでなければここまで記事について関心はもてなかったと思いますが、今後は報道メディアに対し、聞く側、見る側は見識を持って臨む必要を感じた経験でした。
記事の写真を掲載しました。
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