12月下旬頃、面白い番組がないかとチャンネルを回しながら探していると、日本映画専門チャンネルで「愛の星座」と言う映画番組を見つけました。どのような内容か詳細データをテレビ画面に表示して確認したのですが、製作年月しかわかりませんでした。しかし、1957年とあり私の小学校時代昭和31年頃と知り当時の様子、風景が観れると思い懐かしく感じながら番組に見入ってしまいました。主役で先生役の女優さんの名前が小畠絹子だったと思います。
しかし、当時の芸名は木崎伸子として紹介されていました。
当時の子供の服装、バッラク作りの家が画面に写されていました。戦争が終わって10年位しかたっていません。物資不足、低賃金など日本の貧しい時代を思い起こしました。
ほかに映画のシーンに子供達が紙芝居を見ている所、※ニコヨンさんの弁当箱がアルミの箱、三輪トラックの走っている様子など懐かしいシーンが沢山ありました。
※1949年6月、東京都の失業対策事業として職業安定所が支払う日雇い労働者への定額日給を240円と定めた。そしてこの百円2枚と十円4枚という日当から日雇い労働者のことを「ニコヨン」と呼んだ。(日本語俗語事典より)
私の記憶では、当時、三輪トラックのメーカーは「くろがね」「マツダ」だったと思います。私は千代田区飯田町に住んでいましたが、家の裏の酒屋さんが配達で三輪トラックを使っていましたから直に見て、触ったりしたことがあります。運転席と小さな補助席がありましたので二人は乗れたと記憶しています。
隣の写真屋さんが、※日野のルノーを持っていました。リアエンジンで大きさから言えば今の「軽自動車」に相当するものと思います。配達に使っていたと思いますが、一緒に乗せてくれて配達回りに同行したことがあります。
※現在大型・中型トラックを生産している日野自動車ですが戦後いち早くフランスのルノー公団と技術提携してルノー4CVの生産を開始しました。小型で小回りがよく効いたためタクシーとしても重宝され生産終了までに35,100台余りが生産されました。昭和28年4月、ノックダウン組立車発売。(カタログで見る、昭和30年代の車より)
日野ルノーの画像
この記述から思うと写真屋の親父さんは発売当時(昭和28年)に買ったのでしょう。
家一軒分くらいの値段がしたのではないでしょうか。
家には配達で使うホンダのバイクでドリーム号(E型)がありました。
ホンダドリーム号E型画像
私がそれに跨っている子供の頃の写真が残っています。何処へ出かけたかはわかりませんが、そのバイクで親父が運転し、子供一人(多分、姉か弟)を燃料タンクに乗せ、後部シートに私と大人1人の4人乗りしたことがありました。違反にならなかったのでしょうか。今では危ない行為と注意されていたでしょうが、当時は子供心に当然のように不安がらず乗れました。危ないと思うことより、乗れる楽しさが先行したのだと思います。
懐かしさのあまり、当時の思い出話が長くなりましたが、「愛の星座」と言う映画にもある種の感動を持ったので、簡単に紹介します。
当時※新東宝で、教育映画として製作されたものです。
※創立1947年3月の映画制作会社で、俳優では宇津井健、高島忠夫、菅原文太、女優では三ツ矢歌子、大空真弓、池内淳子、 それとグラマー女優として名を馳せた、前田通子、三原葉子、万里昌代などが所属していた。大ヒットした映画では「明治天皇と日露大戦争」主演アラカンこと、嵐寛十郎、高倉みゆきでした。
ストーリーはこうです。
主役の女の先生と登校できない二人の生徒との関わりを描いていました。
生徒の名は、コウイチ、タカオ。
コウイチの母親はニコヨンで生活を立てていて、いわゆる母子家庭なのでしょう。
幼い妹がいるために、母親が働きに出ているので妹の面倒を看るために、勉強は出来るのですが思うように学校へ行けません。
タカオは父親がサンドイッチマンを職業としているが、働きもせず競輪狂いで生活費をいれず、母親が内職で生計を立てています。彼はそんな境遇のためひねくれて、学校へ行かずサボるのです。
そんな彼等を授業が遅れると心配し、何とか学校へ来るよう家庭訪問して説得するのですが、家庭の事情で出来ません。それならと先生は自分の家で教えるからと母親に話して家にくるようにと勧めます。
しかし、現状、コウイチの妹を保育園に入れない限り、学校に行けません。
また、タカオは親の職業がサンドイッチマンということで友達にからかわれるのでしょう。そのためにひねくれて学校をサボるようになっているのです。
先生が授業中生徒に「職業に貴賎はない」と注意しているシーンがありました。
また、生徒が先生に「こんにちは」と帽子をとって立ち止まり挨拶するシーンがありましたが、なんとも清清しいのです。先生を敬う心が見て取れます。
私もその頃先生に対し、そんな挨拶をしていたのかと想像しました。
小学校へ寄付する人が出て来て、物語が好転していきます。
匿名で本名を隠し「一星」と名を書いて月に一度、お金を封筒に納め学校のポストに入れるのです。学校ではどんな人かと先生と生徒が探すのですが、手掛りがつかめません。
そんな折、来る日が決まっているので先生達は、夜、学校に居残って見張りをすることにしました。
見張っていると、子供がポストに入れるところを発見します。
事情を知るためすぐに子供を追って、捕まえようと走ります。子供は子供でつかまってはいけないと、古タイヤ置き場のタイヤに隠れます。しかし隠れたタイヤが倒れ見つかってしまいます。
タカオと言うことがわかり、先生は「お礼」したいからと迫るのです。
子供は名前を明かすなと言われているのですが、困惑しながらも寄付している人を教えるのです。名が「亀吉」じいさんと知り会いに行き、先生はお礼を言います。じいさんはニコヨンをしているのですが、孫の墓を作るためにと蓄えていたお金を、孫の命日に寄付をしていたのです。亀吉じいさんは「一番星の周りの星となって一緒にいるから、孫も寂しくないでしょう」と言い、墓を作るよりも貧しい人たちに役立てた方が孫も喜ぶでしょうと話すのです。
その善意が知ることとなり、他の人たちからも寄付が来るようになります。その集まったお金で学校は貧しい生徒のために使うことを決めます。
コウイチはそのお陰で、妹を保育園へ預けることが出来て、学校へ行けるようになります。
その頃、学校では、水泳教室を千葉の海で行うから、費用200円を添えて申し込むようにと先生から話が出ます。200円と言う金額はニコヨンの日給に相当します。
※補足 昭和33年頃で、銭湯の大人料金が16円、コーヒー1杯が50円の時代
テレビの値段は約6万円(同年の公務員初任給、高卒5400円)
水泳教室当日、校長先生が生徒に向かって言います。「寄付が多く集り、学校はお金持ちになりました。そのお金を使って水泳教室の費用に充てます」と話すのです。これで貧しい生徒もみんなと一緒に参加出来る様になるのです。
タカオも先生の働きかけとある出来事から素直さを取り戻し学校に行くようになります。
ある出来事とは、父親が使いの帰りのタカオを騙して、母親が内職で稼いだお金を取り上げてしまいます。家に帰り母親に会って騙されたと気付くのです。
すぐに、取り返そうと父親を追って走ります。行き先は競輪狂いの親ですから見当が付きます。追っていくシーンでは、橋を渡り、仲見世と思われる風景が出てきます。それを過ぎて、場外券売り場にたどり着きますが見つけられません。
その夜、父親は酔っ払って帰ってきます。水道の蛇口に口を当て飲んでいる所をタカオが見つけ怒りのあまり押し倒します。その光景を先生が目撃します。
酔っ払って立ち去る父親を見ながら先生は慰めるのです。きっと立ち直ってくれると。この映画時間にして1時間程度でしたが、テーマは一貫して相互扶助の「心」と感じました。
主人公の女の先生と、小学校時代の女の先生とがダブって思い出されました。この映画の先生同様、面倒見がよいのです。今でも当時を思うと心が温かくなります。
子供の頃を思い出すと、当時の大人たちは映画同様、そのような精神を持っていたように思います。
親父も親戚を援助するために、職が見つかるまでの期間、家を探す間はと家に泊めて居候させていた事があります。
親父は、戦前叔父が経営する塗装工場に勤めていましたが、戦災で工場が焼けて戦後は勤め先を失い、失業状態でした。
24歳で妻、子供を二人抱え養うためにどうすればと不安になっていましたが、ノートの行商をはじめ、稼ぐようになりその稼ぎで店を起こし文房具屋を始めます。昭和22年の頃です。
モノがない時代だったのでよく売れたと話していました。早稲田にある知り合いの印刷所からノートを仕入れ、リヤカーに積んで大宮辺りまで売り歩いたそうです。妹にあたる叔母も思い出話で話してくれたことがあります。リヤカーを押すのに重くて辛い思いをしたそうです。
事業的には親父は※喜界島から上京して店を持てるくらいなったので成功した部類に入るのでしょう。曲がりなりにも経済的に面倒がみられる余裕が多少はあり、親戚も親父を頼って上京してきたのでしょう。
※喜界島
当時、奄美大島は※アメリカ領土でした。
※ 敗戦後アメリカに占領されアメリカの領土となっていました。昭和28年に日本復帰する。沖縄の日本復帰は昭和47年。
ですから昭和28年以前、上京するためには密航するのです。小さい漁船の船底に身を隠し、鹿児島に向かったと先生だった叔母(親父の弟嫁)は自費出版した短歌歌集「浜木綿」のはしがきに書いてあります。それぐらい大変な思いをしても、上京することで道が開けると信念できたからこそ危険を感じても小さな船に乗り込めたのでしょう。
昭和40年に両親のふるさと喜界島に帰ったことがありますが、当時乗船した船が1500トンの船ですがかなり揺れました。さぞ揺れたことでしょう。生きるたくましさを感じます。
母親の兄、私から見れば伯父と叔母は親父の家で結婚式を挙げました。六畳一間でしたが、親戚一同が写っている結婚式の写真が残っています。
まだ、家長制度が残っていて、親戚が助け合うのは当たり前だったのでしょう。
我が家は両親が生きている頃は親戚付き合いも盆、正月と頻繁に行っていました。特に懐かしく思い出されるのは親父の叔父さんの家へ正月に行くことでした。
おいしいお料理が出て、お年玉が高額だったのです。百円札で2、3枚ぐらいもらえたと記憶しています。その頃、50円くらいが相場だったと思います。
最近景気後退を受けて、派遣切り、期間従業員解雇とマスコミで報道しています。住む場所がない人たちが居る事を報道しています。
私の経験からみてその人達に頼っていく親戚があれば、一時的に身を寄せ夜露を凌いで職探しができると思うのですが、戦後、核家族化して親戚付き合いも薄くなり、それを助ける親戚もなくなっているのでしょうか。
私も同じような経験をしました。昭和31年頃、ある事情で親父は文房具屋を閉めます。その時住む場所がなくなったのですが、母親の従妹に当たる家に身を寄せ、その間親達は家探し、職探しをしていました。
子供の頃とは大きく社会が変化して、相互扶助の心も薄れてきたのでしょうか。
この日本、何か大切なものを見失ってはいないでしょうか。
最近メディアなど、「昭和」を懐かしむような、報道があります。
貧しかったけれど、明るい未来を信じられ、心豊かな時代と報じるのは、その所為なのではないでしょうか。
※ 愛の星座、映画詳細
先ほどはお忙しいところ失礼いたしました。
改めて、今回のブログ拝読いたしました。
社長の情感溢れる文章に、読みながら不覚にも車の中で涙が出ました。
(※注、「読んで下さい」とブログを印刷して渡したのです。)
映画を見ていなくてもよく伝わります。多分、この時代を知っているか否かではなく、親の愛情、他人の情を知っていれば若い方にも必ず伝わると思います。
これからも社長の『憂い』を読者に感じさせていただければと思います。
文章が長いと申し上げましたが、大変失礼いたしました。
読み応えがあればそれが適量なのでしょう。
ご寛恕ください。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
先ずはご連絡迄。
10年経った今、このコメントを読み返して思い出される事、
このコメントを書いてくれた方某銀行の支店長さん、何度も営業に来られ、お話をしていく中、人柄が素敵な方と感じ入った事が思い出されます。
お元気でしょうか?