日本が世界に誇れる「土木、建築技術」⛏。

日本統治時代に台湾で作られたダムなどは土木技術の高さを示すものと思います。
技術者の名を冠して「八田ダム」と呼ぶ。
「烏山頭ダムは、1920年に着工し1930年に完成した嘉南大圳の重要な水利工事の一つであり、台湾初期のダムの一つである。計画は日本人技術者の八田與一により策定され、嘉南平原農業灌漑を主目的として建設された。ダムは曽文渓支流の官田渓上流に位置し、台南県官田郷六甲郷大内郷東山郷にまたがる低地を利用し、大埔渓を集水している。下流に曽文ダムが完成してからは相互補完して運用されている。建設工事には大倉土木(現在の大成建設)を主とし、鹿島組(現在の鹿島建設)、住吉組、黒板工業の各社が参画した。建設途中の大正11年には爆発事故で50人余りの死者、100人余りの負傷者を出している」ウキペディアより。

「建設途中の大正11年には爆発事故で50人余りの死者」とありますが、難工事と思われます。

戦後、黒部ダムにも匹敵する難工事のようです。
日本国となった台湾を良くしようという情熱が窺えます。

「黒部ダムの死者数は171人で、転落事故、落盤事故、車両事故、雪崩などが原因となっています。黒部第三ダムでは泡雪崩事故により108人が亡くなり、ダイナマイトの自然発火事故で8人が亡くなったとされています。」ネット記事より。
この工事も敗戦から立ち上がろうとする日本国民の総意が見て取れます、

八田ダム、100年近く経った今でも堅牢さを維持していることを鑑みてもその技術の高さが窺えます。
また、ウズべキスタンにある「ナボイ劇場」が有名ですね。
「タシケント市は1966年4月26日午前5時23分に直下型大地震に襲われたが、ナボイ劇場は何事もなかったように何ひとつ壊れることなく凛として悠然と建ち続け避難所としても活用された。」ネット記事より。
日本兵たちを称えるプレートには次のように書かれているそうです。
「劇場裏手の記念プレートには以前ウズベク語とロシア語、英語で「日本人捕虜が建てたものである」と書かれていた。これをみた独立後大統領に就任したカリモフ大統領は「ウズベクは日本と戦争をしたことがないし、ウズベクが日本人を捕虜にしたこともない」と指摘し、「捕虜」と使うのはふさわしくないと1996年に新たなプレートに作り変えられた。「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォーイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」とウズベク語、日本語、英語、ロシア語の順に刻まれ、これを見た日本人の多くはこの史実を知り涙している。」ネット記事より。

「百年老橋」と台湾で呼ばれている橋も同様、

「最大震度6強を観測した今回の地震では下清水橋が崩落し通行不能となったが、統治時代の橋は補強すればすぐに使用できることが台湾行政当局の調査で判明。造りが頑丈で、地震から3日後には補強工事が完了し6日夕、通行可能になった。当面は1日3回、3時間限定で運用する。」ネット記事より。
日本人の手による、ダム、建築物、橋などが堅牢なのは「誠」を大事にする精神が脈々と祖先から受け継がれていたのでしょう。
手抜きが行われる他国とは民度の違いが明白です。
戦前の日本人による善行などはメディアは意図的に取り上げないようです。
これも、戦後の占領政策とそれに乗じた進歩的文化人と呼ばれる人の偏向と思います。
新選組も組の旗は「誠」、中近東の砂漠で部族間の争いの中で生き抜いた部族の末裔、ユーラシア大陸で何千年も領土の奪い合いをした諸民族、さらに中国大陸では国の興亡の歴史を繰り返し、半島で長きに亘り属国として永らえた国にはそのような思想を育てる風土、気風も縁がなかったでしょう。

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