私は終戦1年後の戦後生まれ、まさに敗戦の混乱で国民が失望し、希望が見えない、飢えをしのぎ生きていく時代に誕生しました。
※1951年(昭和26年)この講和条約によって、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下を離れ、日本は主権を取り戻し、国際社会に復帰することになるわけです。それでは、この条約が結ばれた背景から見ていきましょう。ネット記事より。
占領軍支配下から解放されて3年目の頃、神楽坂にあるメトロ映画劇場でみた「雲流る果てに」から神風特攻攻撃隊を知ったのです。
遠い記憶なのですが、おそらくそうだと思います。
大東亜戦争が劣勢となり起死回生の手段として取られた戦法と理解していました。
子供心に命の棄て日本を守るため戦闘機の乗る覚悟に勇気ある兵隊さんと思ったものです。
占領軍マッカーサーの指揮下のもと、日本国は「悪」と東京裁判で断ずる占領政策を行いました。
結果、自信喪失した日本国民は国家の主権を守る意義、ナショナリティー、また民族の誇りを失う結果となりました。
それが故に、アメリカ占領軍の政策で「国家の守り」を考えない国民となり、
ある政党の政治家などはお国のために命をささげた英霊に敬意、感謝を払うことを拒否しているにもかかわらず非難されないままに今に至っています。
まして、「沖縄では戦後、軍人は「悪」などど否定され、沖縄戦で特攻があったことも知らない人が多い」産経抄より。
ここまでいびつな心に変わってしまったことは、大東亜戦争の総括を日本人自身でせず占領軍任せにしたことの結果でしょう。
どの国でも、お国のために命を捧げた英霊に対しては思想信条に関係なく敬う心を持つものですが、日本では違っているのです。
この異常さを国民は糾弾するわけでもなく容認しているところが大和心の喪失が認められる根拠です。
産経抄冒頭に、「今年は昭和19年に特攻隊が組織され80年の節目にあたる。」とあります。
戦後の反省で、無謀なことだったとか結果論で非難する人もいますが、その時代に生きていた若い航空兵は葛藤はあったでしょうが、国のためと任務を遂行したのです。
「伊舎堂(いしゃどう)用久中佐の名前を知っている人も多くないだろう。中佐らの飛行隊は、沖縄戦の陸軍第一号として、石垣島に白保飛行場から出撃し、慶良間諸島沖の米軍に突入した。中佐は24歳の若さだった。」産経抄より。
時代の巡りあわせとは言え、若い命を捨てなけらばならない状況は悲しい出来事ですが、祖国を守らなければと言う思いを持つと事は国民として当然だったのでしょう。
今の時代で考えれば、悲惨なことと済ませることができましょうが、「国家の存続」は時代は変われど永遠に直面する国家存亡の問題、これをどう考えるかで決まるのです。
「中佐の知る人の「国を思う国民の心なくして平和も人権も生活もあり得ない。伊舎堂中佐が守ってっくれたからこそ、こうやって今われわれは生きている。」産経抄より。
今生きている日本人がよくよく考えなければならない課題です。
「来年春から使われる令和書籍の中学歴史教科書で『特攻隊員が散華しました』といった記述にも批判があるようだ。『国のため命を捨てることが美化され、こわい』などどいうが国のために命をかけた先人について教えない教育こそ、見直すときではないか。」産経抄より。
「公に尽くす」精神はその国家に依存する仲間たちの安寧、平和を守る原点的な心です。
国のため、忠誠心、愛国心が否定されて79年、国家の存続が何によってできるのかを考えなけらばなりません。
東京裁判自虐史観の払拭を!
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