今日、11月23日は「勤労感謝の日」旗日です。
戦前の新嘗祭に当たります。
旗日という言葉を知る人が少なくなっていますね。
今でも掲揚する家はほとんど見かけません。
戦前までは家々に掲げお祝いしたものです。
占領政策によって国旗「日の丸」の自由掲揚が禁止された時期がありました。
この本には次のように記述がありました。
「・・・昭和22年5月には、国会、最高裁判所、首相官邸、皇居の四か所での掲揚が許可されています。その後、マッカーサーは昭和24年に年頭メッセージを発表して、好む場所に自由に「日の丸」を掲揚することを許可しました。
マッカーサーは次のようにいっています。
『余が今回この挙に出た理由は、一にこの国旗が人類ひとしく探し求めて来た正義と自由の不易の観念に立脚した平和の象徴としてとこしえに世界の前にひるがえらんことを、‥‥また日本の政治的目的を確保し保全するにたる日本経済建設の「義務に向かって日本国民の一人一人をふるいたたせる輝く導きの光としてひるがえらんことを心から念願するからにほかならない』
ところが、日本国民は「日の丸」を掲げようとしませんでした。
当時の模様を昭和24年1月30日号の『サンデー毎日』はこう書いています。
「久しぶりに禁が解かれてたのであるから、町は日の丸で埋まるようになるかと思ったら、町なみに小旗一本見ることができなかった。私たちは国旗を忘れたのであろうか」・・・・」
昭和24年というと私の家は千代田区飯田町目白通りに面した場所で文房具屋を営んでいましたが記憶では5、6歳の昭和27年頃、お店には日の丸は掲げていなかったですね。日の丸の記憶があるのは、当時通っていた千代田区立富士見小学校の国旗掲揚で観た事です。朝礼で掲揚し午後3時ごろ降納していたと思います。
日の丸の思い出話をクラス会の折に恩師に話した時、国旗掲揚・降納に作法を教えてくださいました。
「掲揚・降納の際には国旗に気を付け正対し礼をするのよ」と。
小学校の入学が昭和27年の4月であり学校では掲揚の習慣は戻っていたのでしょうが、各家庭ではしなくなっていたのでしょう。
この本には次のような記述がりました。
「ちなみに昭和25年2月の朝日新聞社の全国世論調査によれば、国旗を持っている人は73%いるものの、祝祭日に「日の丸」を掲げる人は30%にすぎないという結果が出ています。「国旗を出すと世間から軍国主義者のように思われるから出さない」「誰も国旗を出せといってこないし、出さなくても誰からも文句がこないから」というものでした。
この結果は「ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム=日本人に戦争犯罪の意識を刷る込む情報宣伝計画」に基づく、戦後教育が愛国心そのものを危険視した一つの象徴ともいえるのではないでしょうか。」
そのほかに「武士道」「大和魂」「忠誠心」等がやり玉に挙がっていたと記憶にあります。
しかし、これほど簡単に価値観が変わるものでしょうか?
如何に占領軍が巧妙に仕掛けていたのだと思います。
また、敗戦で日本人が自信を無くしたことも影響しているのか?
「国旗を出すと世間から軍国主義者のように思われるから出さない」
とありますが、軍国日本と謳った戦前、占領軍が軍国主義なる造語を使い日本の軍隊を悪として洗脳した結果なのでしょう。
そんな風潮がある時代に子供であった私も判断が付くようになった高校生頃になると「おかしい?」とそんな風潮と共に勝ったアメリカは正義、負けた日本は悪との裁きに疑問を持つようになっていました。
道理は簡単、「※喧嘩両成敗」と昔から言われている言葉からです。
※「けんかや争いをした者を、理非を問わないで双方とも処罰すること。戦国時代の分国法にみられ、江戸時代にも慣習法として残っていた。」ネット記事より。
現在もこの占領政策の体制が維持されて、各分野に影響を与えています。
その一つに例が、国旗掲揚にみる偏見です。
国に誇りを持ち祝いの気持ちを表す行為に躊躇するところに「その洗脳」が見えてきます。
オヤジが遺した日章旗
川越第二工場
国体護持の目的にかなう行為の一環、「多様性」と叫ばれるこの時代にこそ、その意義が問われるのです。
私も国旗は掲揚すべきと考えます、国民ですから
コメントをお寄せ頂き有難うございます。
小学校の恩師が「敗戦するという事はこんなに国を変えてしまうものなのですね」と嘆いておられていました。
教育もそうですが、各家庭で国旗掲揚し無くなったのもその一つですね。
占領政策によって日本の弱体化を図った成果の一つでは。
マッカーサーが恐れた「日本人の団結心」を削ぐために!
小生のブログを読んで頂き恐縮です。