気になり出した言葉「ジェンダー」

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気になりだした切っ掛けは、8/25付のネット記事に次のように書かれていたからです。

「来年2月に開催予定のドイツのベルリン国際映画祭は24日、これまでの男優賞と女優賞を取りやめ、次回から性別に関係なく表彰する「主演俳優賞」と「助演俳優賞」を新設すると発表した。ジェンダーニュートラル(性的中立性)の考えで定義したという。」記事より。
この文章から、違和感を感じるのは、「男女と両性」が存在するのに敢えて性的中立性の考えで呼称を変更したからだと言っています。
人類発祥の数百万年前からヒトは間違いなく自然の仕組みの中で男女を意識し区別しながら共存して社会を形成して現在に至っています。男・女と区別することは自然と思うのですが。
この辺が「違和感」を感じさせるのではと思うのです。

ジェンダーの定義を確認すると、
「英語:gender:ジェンダーとは「(男女の)性」のことである。身体的特徴としての(生物学的な雌雄の)性別というよりも、人間社会における心理的・文化的な性別、社会的な役割としての男女のあり方、「男らしさ」や「女はこうあるべき」といった通念を意味する語といえる。
【ジェンダーの語源】
ジェンダーという語は、英語の「gender」に由来する外来語である。英語を含む西欧の諸言語には名詞に「性」が付随する(たとえばドイツ語には男性名詞・女性名詞・中性名詞の3区分がある)が、この文法上の「性」がgenderに該当する。
生物学的なオスメスの区分を指す意味の「性」は、ジェンダー(gender)ではなくセックス(sex)である。」ネット記事より。

なるほど、日本語も同じように使い分けますが、西洋諸国の方が言語的に、男・女・中性と明確に分けるようで、言葉の上で「中性」と示す認識・イメージは強いのでしょうか。

定義の文面に「通念」の言葉が用いられているのが「キーワード」となるようです。

更に、10/1付のニュースでは、
「日航は1日から、機内や空港で使用していた「ladies and gentlemen(レディース・アンド・ジェントルメン)」の英語アナウンスを廃止し「all passengers(オール・パッセンジャーズ)」「everyone(エブリワン)」などジェンダーに中立的な表現に変更した。日航は「無意識に性別を前提とする言葉を使っていた。これからは誰もが利用しやすい環境をつくりたい」としている。1日午前10時すぎ、羽田空港の国際線搭乗口では、地上スタッフの女性がこれまで使用していた表現を一切用いず、ヘルシンキ行きの航空機に乗客を案内していた。」ネット記事より。
この様な記事を再び目にすることから、ベルリン映画祭の呼称変更と同じ考えで判断しているのではないでしょうか!?
「無意識に性別を前提とする言葉を使っていた。」との反省の言葉が書かれていますが、正に自然な事だと思いますが?。

しかし、ここに来て、よく使われるようになって来た言葉として、
ジュエンダーレス、ジェンダーフリー、ジェンダーニュートラル。
〇ジェンダーレス:性差のない、またはなくそうとする考え方のことである。
ジェンダーフリー(ラテン文字表記:gender-free):「従来の固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること」と定義される。・・・ウキペディアより
〇ジェンダーニュートラル:性的中立性

通念では、男性は女のような化粧はしてはいませんでした。
ただ、男?でありながら女性のような恰好をし、タレント業をする人が以前から見受けられていました。
例でいえば、俗称で「オカマ」と呼ばれ、男性でありながら、心理面では女性と同じ感性を持ち、その特徴を「売り物」にしているタレントはかなり前からテレビに出るようになっています。
また、今までの通念から離れて化粧の技能を売り物にして、それ魅せるタレントもいます。
風俗的な面で、男女の境が無くなっているのが「ジェンダレス現象」なのですかね!?
それはそれとして世間では認知する様に変化していますね。
それにつれて化粧する男性が出てきているようです!

ジェンダーの視点から「通念」を見ていくと、
学生の頃見た映画「メリーポピンズ」を思い出します。
その舞台となった20世紀初頭のイギリス社会を反映している「ハンクス家」の物語、母親が婦人参政権運動で子供の養育をせず、仕方なく「乳母」メリーポピンズを雇うことになる話。
当時は、女性は夫の養われている存在、そこに主従関係があり参政権などは必要なしと考えられていた時代、
それが社会構造の変化とともに社会進出に目覚めての婦人参政権運動が起きた話。

この頃から、女性の「人間社会における心理的・文化的な性別、社会的な役割」の性差を無くす活動が芽生え来たのでしょうか。
それ以降、
「フェミニズム(英: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想・運動である。 女権拡張主義、男女同権主義などと訳されることもある。」ウキペディアより。

フェミニズム思想の潮流で、その影響を受けながら社会は変化してきたのでしょう。
日本では、1945年(昭和20年)婦人参政権が認められています。
そして、印象にあるのが「中ぴ連」運動、
「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合(ちゅうぜつきんしほうに はんたいし ようきゅう する じょせいかいほう れんごう)とは、1970年代前半に活動した日本のウーマンリブ団体である。中ピ連の略称で知られた。代表は元薬事評論家の榎美沙子新左翼のものを模した、♀印のついたピンク色ヘルメットと過激な活動内容でマスメディアを賑わせたが、だんだんと活動が下火になって解散された[1]。」ウキペディアより。

女性解放運動の基は、「人間社会における心理的・文化的な性別、社会的な役割」という視点での通念からの解放と思います。

通俗的に言えば、「女だから」「女のくせに」など「女子、女性」の性で「決めつけるな」との主張ですね。

私などは、躾で「男らしく」と振舞うように育てられた世代、
例えば、「色」の好みでは赤系の服装は「女性」用と思う傾向にあります。
孫(♂)が「ピンク」が好きといった時、「ピンクかよ」との反応し娘に咎められたことがあり、時代の変化を感じた経験があります。
ただ、色の属性から、「男らしく」とのイメージは、精悍さを感じ取る色の方が自然と思うのですが?

職業の例でみると、昔はトラック運転手、男の職業でしたが、ハンドルが「パワーステアリング」に改良されてからその運送業界に女性の進出が目立つようになりました。
これなどは、技術の進歩があればこそ、今まで通りのハンドルであれば力仕事やはり男性向きです。
女性であっても、戦前男性が戦地へ赴いた時代、男性に代わって仕事に就いた時代もありました.
時代の流れで通念に変化が現れたケースでしょう。

その流れを促進したのが、通称「男女雇用機会均等法」昭和47年。
「この法律は、法の下の平等を保障する日本国憲法の理念にのっとり雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保を図るとともに、女性労働者の就業に関して妊娠中及び出産後の健康の確保を図る等の措置を推進することを目的とする(第1条)。この法律においては、労働者が性別により差別されることなく、また、女性労働者にあっては母性を尊重されつつ、充実した職業生活を営むことができるようにすることをその基本的理念とし、事業主並びに国及び地方公共団体は、この基本的理念に従って、労働者の職業生活の充実が図られるように努めなければならない(第2条)。」
この法が出来てだいぶ時間が経っていますが、徐々に社会生活に浸透しています。
母性を尊重されつつ、充実した職業生活を営むことができるようにすること」、この要件を満たすことが、今後の課題となるのでしょう。
「母性を尊重されつつと」とありますが、女性の役割(母性)を果たせるよう守りつつ、職業生活を営める環境造りの整備を進めることが国の役割であり社会で共有する課題となりますね。

ジェンダーの理解は、男女平等に職業生活が出来るようにと進める国策であり、性差を無くす事とは意味合いが違うと思えます。

それが学校教育の場で、今までの通念を無くそうと、「ジェンダーフリー」の考えが教育に取り入れられているとか!?
学校教育では性差を無くし「中性」というニュアンスで「ジェンダーフリー」と定義し、推進されていると知りました。

調べると、日本政策研究センターのHPにたどり着きました。
HPより引用、
冒頭、「夫婦別姓・ジェンダーフリー」の項目に投稿された文章を使い「警告」を発していました。
「ジェンダーフリー教育の恐るべき『弊害』『男らしさ・女らしさでなく、人間らしさは』は空理空論、ジェンダーフリーは子供の健全な人格を破壊し、結婚離れを加速させる。そうなれば、家族が崩壊するだけでなく、社会の崩壊にも直結する。」
さらに続いて、教育現場の事例を上げていました。
「『男らしさ』や『女らしさ』など、男女の性差を否定・解消しようとするジェンダーフリー教育が全国各地の教育現場に浸透しつつある。例えばピカピカのランドセルを背負って今春入学した一年生たちは、「男の子が黒いランドセル、女の子は赤いランドセルという親や社会が勝手に決めただけ」と言われ、ランドセルの色を男女で区別するのは間違いだと教えられる。また高学年の子供たちには、教科書やテレビ番組なの登場人物について、『男子がズボンをはき、女子スカートなのはジュエンダー・バイアス(性別による偏り)があるためだ』などと教え込まれ、そうした『バイアス』に敏感になるように要求されたりする。

このように、ジェンダーフリー教育とは、『区別は差別』との観点から、男女の一切の区別を許さない極めて偏狭な人間を作るための洗脳教育である。そればかりか、その推進者たちが理想とするのは雌雄同体のカタツムリでもあるといわれている。つまり、日本の子供たちを男でもない女でもない雌雄同体の『無性人間』に改造してしまおうというのが、ジェンダーフリー教育に秘められた目的ともいえる。

これを笑い話というなかれ。現に福岡のある高校では、男子と女子が同じ教室で日常的に平然と着替えをするという驚くべき光景が見られるのだ。その多くは小学生の頃からジェンダーフリー教育を受けてきた生徒たちであるという。つまり、異性に対する思春期特有の恥じらいの感覚のなくなった子供たちがすでに出現しているわけだ。こうして本来の正常な感覚を失ってしまえば、精神的な意味での「無性人間」までもう一歩といってもよい。・・・」

この文章から自然な人の成長過程を無視し、歴史的文化を蔑ろにしているような気がします。
社会的、文化的に歴史を踏まえながら形成された社会を無理矢理にイデオロギーで改革して国を壊したカンボジア・ポルポト政権を思い出します。

このジェンダーフリー教育、
生まれ持って、性別があるのは自然の摂理、それを壊そうと目論んでいるのが恐ろしい。
またなんで、そのような考えで教育しようとするのが理解しかねます。
時代の流れで、女性が社会参画の方向へ動いていますが、今までの通念で性差をもって差別がないようにとに次の文章から思えるのですが。
「・・・女性労働者にあっては母性を尊重されつつ、充実した職業生活を営むことができるようにすることをその基本的理念とし・・・」
「職業生活」で差別がないように法律に記されて、「母性を尊重されつつ」とあり、性差を認めた内容になっています。

セックスでの区別をなくす社会を求めているのでなく、男女平等にと謳っているのは職業生活おける場でとの事と思います。
その証として、看護婦が看護師になり、保母さんは保育士と呼称が変えているだけでセックスの区別は無視して居るわけではないと思います。
卑近な例ですが公共の場では、便所は男女の区別があります。
ただ明確に区別で出来ないケースもあるので揉める事(裁判沙汰)もあるようですが。

それが教育現場でジェンダーフリーと言って※「子供たちの内心に触れ」自然の摂理に背く人間教育を行うのはおかしいと、その先生方は思わないとすれば、異常が状況と思います。
教育現場では※「子供たちの内心に触れる事は良くない」と言って「道徳授業」をしない学校もあるとか、矛盾しています。
※PTAという組織があるのに父兄方は何も言わないとすれば、戦後GHQが設けた教育制度の意味から外れているのではないのでしょうか。
※父母と先生の会。家庭と学校とが協力し合って教育効果をあげようとする、学校単位に結成された教育組織。▷ parent‐teacher association の略。

20世紀初頭から始まった婦人参政権運動の流れの中で、フェミニズム、ジェンダー、ジェンダー・ニュートラル、ジェンダーレス、ジェンダフリーなど言葉の理解がまちまちで、その意義をただ単に「ジュエンダーフリー」の言葉で流されているような気がします。
本来であれば、「ジェンダーフリー」の定義では、「性差」なくすという事は、職業生活、社会参画と呼ばれる場において「性差」なくすのが目的であると思うのですが。
社会で、様々な理解の仕方により混乱が起きているのが現状ではないでしょうか。

教育現場の「ジェンダーフリー教育」に警鐘を鳴らしている本もありました。

そこには平成11年「男女共同参画社会基本法」が制定された以降、「ジェンダーフリー思想」が社会の混乱を招いていたことを受けて、明確に定義された文言がありました。
結びにそれを紹介します。

「『ジェンダーフリー』という用語を使用して、性差を否定することや、男らしさ、女らしさや男女の区別なくして人間を中性化を目指すこと、また家族やひな祭り等の伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる」と「ジェンダー・フリー」が明確に否定されたことである。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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