合気道、万生館道場の想い出。砂泊諴秀師範

懐かしい想い出です。

砂泊諴秀師範が鹿児島県の出身という事は著書から分かっていましたが、両親の郷土喜界島出身者と知り驚きました。知ったのは次のような経緯からです。

断捨離で私の書棚整理の一環から、合気道の弟子に師範の著書を上げたのですが気になり、ネットで調べてみると、喜界島出身の方のブログにたどり着きました。
以下、ブログより引用、
「・・・合気道開祖、植芝盛平翁の直近の愛弟子であった砂泊緘秀氏は、鹿児島県喜界島の出身です。
私の同級生から砂泊兼照氏の顕彰碑が坂嶺小学校にあるということを聞いたので早速見に行きました。
それが前回のブログです。2012.06.14...」

何故、驚いたかと言うと、私が昭和44年に万生館道場に入門をして師範と関わって居たからなのです。

仕事で熊本に出向していた時期があり、偶然に道場(熊本市手取神社内)を見つけたので入門を願い出たのですが、合気道は二段で合気会の会員と申し出るとその証明が欲しいと言われたので取り寄せて入門が許されたのでした。
黒帯ですと確か月謝が安くなる特典もありましたので。

昭和40年の入会、番号が11060号とありますから、現在と比べると普及程度が低いことが分かります。
熊本に滞在している期間数ヵ月、仕事の関係もあって月に何度かの稽古程度だったと思います。
その時に喜界島出身と分かっていれば、別な思いも湧いた事でしょう。
しかし、当時の奄美出身者は出身地を伏せる傾向にありました。
大学時代の合気道部に派遣された指導者は、金井師範後にボストンへ指導の為渡米、後任には有川定輝7段になりました。
当時から師範によって指導の仕方に違いがあり、砂泊師範に指導方法は掛かり稽古が主体だっと記憶にあります。大学時代で習った合気道の技、指導方法の違いによるものなか手の使いに特徴がありました。
同じ指導者植芝盛平について修行していても学ぶ側の感性により術理の解釈によって変わるのものだと知る経験でした。
それから、21年程立って再びで会う機会に恵まれたのが、第一回合気道友好演武大会でした。
終了後、たまたま人垣に囲まれた師範をお見掛けし割入って挨拶したのですが記憶になかったようです。

万生館道場は手取神社境内にあり、木造造りで境内に佇む道場は景観にそれらしい雰囲気がありました。
仕事で熊本を離れることになり、合気道の稽古は中断しましたが、昭和52年再び合気道の稽古をする機会に恵まれ、指導することとなりました。
当時、合気道の研究のためにと購入したのが砂泊師範の著書でした。

他にも、当時師事していた斎藤守弘氏著書の合気道技術書もありましたが、技における身体の使い、動作の違いが目についたものです。
この本から見えてくるもの、砂泊師範の合気道修行の目的は、開祖植芝盛平が残された言葉の体現だったようです。

著者、「合気道の心を求めて」には、日々の合気道修行を通して開祖が残されたお言葉と摺合せした文章が書き綴られています。
この本の「はしがき」の一文に次のように書かれています。
「・・・「これまでの武道はまだ充分ではありません。今までのものは魄(はく・体)の時代であり、土台固めであったのです。すべてのものを、目に見える世界ばかり追うといけません。それは何時までたっても争いが絶えないことになるからです。目に見えざる世界を明らかにして、この世に和合をもたらす。それこそ真の武道の完成であります。今までは形と形のすれ合いが武道でありましたが、それを土台にとして。総てを忘れ、そのうえに自分の魂を乗せてなければなりません。愛の心が無かったら、万有愛護の大精神の大業はなりません」・・・」。


術理の追及はこの精神に基づいて実践していたと本から読み取れます。
大正12年生まれの砂泊師範、皇武館時代(戦前の呼称)の入門、植芝盛平のお付として陸軍中野学校へお供して助手を務めていた位ですから、合気道の実力は認められていたようです。

私は昭和40年の入門、その頃の諸先輩には多士済々の強者が開祖の元に参集したようですね。
私が師事した有川師範、斎藤師範の印象は武芸者風と映るのですが、砂泊師範は求道者的な姿勢が印象的です。あの頃、様々な人々が開祖に導かれ合気道を修行していた時代でした。

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