昭和64年1月7日先帝昭和天皇陛下が崩御され、平成の御代を迎えることになりました。
そして今年は今上天皇陛下が譲位されることとなり、これで改元を経験するのは、2回目となります。
小さい頃、元号についての説明受けた事があります。
教えてくれたのは親だったか記憶にはないのですが内容をしっかりとおぼえています。
明治になってから、一世一元となり元号はそれまでのように頻繁に変えることはなくなりました。
それまでの江戸時代以前、吉祥な事、不吉な事など起った時などに改元していたのです。
流行り病、凶作、天変地異など、そして天皇即位。
元号、年号と時代を刻む慣習があるのが日本だけなのか?
子供の頃から新聞は元号が主体でしたが昨今は西暦表記に変わってしまい、うちのばあちゃん病院で昭和?年生まれと話しても、年齢の察しがつかないようです。それだけ若い人にはなじみが薄くなっているようですが、日本の文化歴史の再認識と云うことでも、見直すことも意義がある事ではないでしょうか?
参考資料として次の本を用います。
此の本「日本古代史と神道の關係」はこの方久米邦武氏(写真)が明治学院神学部に於いて10回の講演をせられたものを沖野岩三郎氏が筆記せられ、それを博士(久米氏)が校閲加筆されたものであるが、今回の上梓に当っては、沖野氏が全般に当って字句その他に整正を加えられたものと説明があります。
諸言には明治40年6月7日 沖野岩三郎誌す。とありますから112年以上前の講演となるようです。
久米邦武氏の略伝、
天保17年、旧肥前佐賀藩士邦郷のことして生る。文久3年江戸に出て昌平黌に学び、明治政府成るや2年9月大史兼神社局大辨となる。4年岩倉特命全権大使に随行して欧米諸国に赴き6年9月帰朝、のち修史局に入り重野博士と共に「大日本編年史」を分担寄稿す。又現東大文学部の前身なる文科大學教授に任ぜらる。・・・
とあり当時にしては洋行の経験もあり幅広く見識を持っためずらしい経歴の持ち主なのです。
随行の際、役人としての役割から宗教取調係を受け持っており、世界での宗教の役割、存在の意義などを詳しく知り得た立場のようです。
この本の「第4章 儒教陰陽道と仏教および神道との区別」にそれは(改元について)書かれていました。
天保生まれの、知識人が有して居た知識を知る上でも大変興味深くこの本を読んでいますが、今までの漠然としていた知識を明確にさせる上でも面白い本です。
その一つに、「祭政一致」がありました。これをよく耳にしたのが開祖植芝盛平講話からです。
開祖は「祭政一致の本義」と言われていましたが、この本に拠れば政治の土台であり、季節折々に祭事を行い五穀豊穣を祈念する事です。
本義は国の安寧、民の幸福を達成させ平和社会を造りだすことのようです。
本題に入ります。
1項目には「三国伝来の宗教」とあり、区別を書いています。
昔は天竺(てんじく)、震旦(しんたん)、本朝(ほんちょう)を三国と言いました。
今風に書けばインド、支那、日本となります。
仏教はインド、支那は儒教、道教、陰陽道の本場、そして日本の教は日本固有の神道であります。
ここまででは、出所の違いの説明となっています。
ちなみに三国一の花嫁と言う言い方がありますが、世界一という意味なのでしょう。
ここに上げた宗教が当時は科学的なアプローチとして認知され学問と見做されていました。
そして、
2項目に「運命」とあります。
この運命論が基になり改元をする根拠になっていったようです。
こう書いてあります。
・・・三国伝来の秘伝には、いろいろな事があります。けれども其の秘伝中で、運命と云うことが一番男女社会の宗教心を支配する勢力を占めていました。これは震旦流で、鄒衍(すうえん)の『陰陽主運終始五徳之運』という事から出たのであります。前にも一寸申して置いた通り、人間が空の星を見る時、何だか此の土地と自分の身の上に關係がありそうに思われるものです。『天象は東から西へ廻る、これを天運と名づける』 此の天運の規則がある所から四季及び十干十二支というものを割り出しました・・・
ここまで読んで理解できたこと、何せ112年前の人の方が言っていること、「運命と云うことが一番男女社会の宗教心を支配する勢力を占めていました。」と書いている部分をどう理解すればいいのでしょう。
口述者が「運命」を鄒衍(すうえん)の『陰陽主運終始五徳之運』から出たと言っています。
それでは其の物、ここでの解釈であれば秘伝であり
鄒衍(すうえん):「前 350年頃活躍した中国,戦国時代の思想家。斉国 (山東省) の人。天文や地理にすぐれ,陰陽説と五行説を合せて宇宙の生成を論じ,かつそれに基づいた五徳終始の学説をもって歴代王朝の交代を説明したという。 」の思想に基づいた運命論であり、そして、「一番男女社会の宗教心を支配・・・」との記述の理解は、ヒトに影響する心理の事を指していると考えます。?
この運命思想によって、運の運(めぐ)りを変えていけるとの考えなのでしょう。
・・・ところでこの天運の規則は。極まっている様で、そうでもないのです。時時どうも不意に気候の不順があったり、大雨が降ったり大風が吹いたりする。病気が流行したりする。これが即ち『運』の運(めぐ)りである。でこの運命がよく前から判っていたなら、暮らしがよくなるだろうと言いました。その運命は知識の高い人に判る事が出来るだろうと思ったところから、学者に期待しました。そこで当時の儒者も陰陽家(おんみょうか)も、この運命の研究に大層知識を用い、それから五徳の運を推して、天にも地にも日にも時にも、十干だの十二支だの方角だの星だの経緯度のように割り付けて、人間の運命に程度を極めつけたのであります。・・・
ここまでの考え方要は、将来を見定める知識、学問として位置付けて指針としたのでしょう。
・・・日本では大學が出来た当時、『儒は明經、記傳明法』と分科しましたが、經學は昔から運命を考える事に重(おも)に用いられたので、何れも運命を主としたのです。勿論陰陽道という中には、道教や儒教の緯學も混っているのです。・・・
●陰陽道
●道教
●儒教
●緯學?
以上の学問(今でいうサイエンス)を駆使して運命を計り判断したのでしょう!?
・・・このように当時の有様は、儒教と陰陽道とで学術を二分したという有様であって、如何に当時の人がこの運命の事を気にして政治の主要にしていたかいう事は、思い半ばにすぎるものがあります。・・・
当時、この本では秘伝と言い方をしていますが、一部の人しか有せないものであり、それを取得したものは政治の中枢にいたのでしょう。
そして運命を計れる特殊な才能者として政治を託されていた。
「・・・がこの運命の事を気にして政治の主要にしていたかいう事は、・・・」これが改元の切っ掛けになるのでしょう!?
そして、
3項目に「改元」があります。
・・・この運命説が、如何に重大視されていたかという事は、改元の一事に證しても明かです。いま日本は明治で、支那は光緒の年號でありますが、この年號は支那が始めたのであります。漢の文帝(私の推定の年代では神武天皇よりずっと以前に当る)道教を信じていたが治世中23年を二つに分って、即位元年と即位の17年目を改めて後元として、元年として、元年と後元と二度元年を用いました。其の子景帝在位16年を元年、中元、後元と元年を三つ用いまいました。ところが、元年が幾つもあるのは都合が悪いので、景帝の子の武帝になって、始めて最初の元年に名を付けて『建元』といったのです。此の建元が支那に於ける年號の始めであります。・・・
元号、年号と時代を刻む慣習があるのが日本だけなのか?
日本だけでなく支那でも年號を使っていた事が分かりました。
漢の文帝(前漢 前180年11月14日~前157年7月6日)
かなり昔の事です。
久米博士、ここに書かれている内容、どんな文献から調べたのか150年前にも豊富な資料があったのでしょう。また宗教取調係の役職から目にする機会も!
・・・日本でも早くから仏教僧侶の間には、ひそかに年號を用いていたらしいが、孝徳天皇の大化と號したのが年號の始めであります。然るに此の大化が5年程続いた時、周防の国から草壁連醜經(くさかべむらじしこふ)が白い雉子を獻じたので、これは目出度い事であろうと儒者に諮問し。又僧侶にも問うた所、道登法師は白鹿薗寺(びゃくろくをんじ)の古事を引いたり、儈旻法印(そうびんほういん)は※『王者清素なれば山に白雉を出す』と申し上げたりしたので、白雉(はくち)と改號されました。・・・
吉祥:元来,幸福,繁栄を意味する語。仏典ではめでたいこと,また,幸先のよいことなどにも用いられる。
ここの記述、目出度いのでと白雉(はくち)と改號したと理由を著しています。
・・・これが日本に於ける改元の始めです。其の後は年號暫くやみ、35年後に、天武天皇の末には善政が天に聴こえたと見え、赤い雀が瑞祥として出ました。それで朱鳥(しゅちょう)と改元したのです。その後文武天皇の5年に對馬から黄金を獻(献)つたので(たてまつったので)大寶と改めました。けれども此の黄金は偽物であったいう話です。・・・
ここの記述では善い事、目出度いなど慶事がある時にも改元しています。
更に良い世の中になるものと当時の学者、知識者など秘伝を使い改元するようです。
・・・次に慶雲、これは宮殿に目出度い雲が現れたというので、大寶と改元してから4年目でありました。
参考資料 和暦 元号
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