表題の犬田布騒動なる言葉、6月下旬、奄美民謡の先生の歌唱指導中に発せられた言葉、どのような状況で言われたか、「くるだんど節(其の二)」の歌唱指導の詞の唄い方の時でした。
「ハ―――レ(ェ)(ェ)(ェ)――イ―――――――――し--(ィ)(ィ)ゃア□□□な(ァ)――る(ゥ)(ゥ)な-(ァ)ヨ(ォ)---」
太文字斜体部の「な」の発声を「引く」ように、物悲しい響きをと言われて、そのタイミングで犬田布騒動の話が出てきたのです。
奄美民謡は哀切、哀調と言われる調べが特徴的な民謡、その感情を出すためにとの指導でしたが、難しいところ。
奄美は琉球、薩摩支配時代から、圧政に我慢して生きてきた歴史があります。今テレビで放映されている「西郷どん」なる話がその時代にあたります。
薩摩支配の時代は250年もの長きに亘り、黒砂糖だけを造る様に仕向けられた生活の中で、辛い労苦、労働に耐えるためにうたわれたのが島唄。
だから、それにこだわるがための先生の指導だったのです。
あの時代に生きて来た人の心境、思いなど島唄で表わすことなどは困難なことと思いますが、先生はそれがないと奄美民謡ではないと言い切ります。
奄美諸島の生活は離島苦があり子供の時分からその事は聞かされていました。
自分の親たち、親戚はそれから逃れるために本土へと渡っていったのです。
いま、そんな生活苦を知る人達、60半ばぐらいの者まででしょうかね!?
それでは犬田布騒動はいつ起こったか、先生が言われたのが文久2年の事と言われていたのですが、インターネットで調べると次のように記述がありました。
やっぱりあったんだなと思いました。
「犬田布騒動(いんたぶそうどう)は1864年4月23日(文久4年3月18日)に徳之島の犬田布村で起きた百姓一揆。農民の立場から、犬田布義戦(いんたぶぎせん)とも呼ばれる。
サトウキビを産する奄美群島は当時の薩摩藩の過酷な砂糖政策により搾取を受けており、砂糖総買入制によって島民による砂糖の売買が禁じられていた。
騒動の発端は農民の一人新山為盛が砂糖の横流しの疑いにより捕らえられ拷問を受けたこととされている。為盛救出のため犬田布の農民150人余は暴動を起こし、仮屋を包囲、役人を追い、森に7日間篭城した。奉行所も村民全員を罪人にはできず、7人を島流しして無血解決した。この騒動は奄美群島全域に知れ渡り、その後の砂糖取締りは大いに緩和された。」ウキペディアより。
此の事件を基にして書かれたと思われる短編小説がこの本に載っていまいした。
物語のあらすじは、
「新代官が赴任して、島妻になる女性にそそのかされて砂糖税収を増やし、自分も砂糖で財産造りをして貯えを持ってお国に帰りなさいと」
この女、オランダ人との合いの子の設定、妖艶なその女に操られ代官は砂糖取り立てを厳しくしたため、村人たちが反抗して騒動を起こすというもの。
この短編小説で紹介されていた島唄の歌詞が当時の暮らしを思い起こさせる。
かしゅてゃんてん
誰がためになりゅう
日本(やまと)いしゅぎりゃが
ためどなりゅる
意:これほどの苦しみに耐えて、誰がためになるのだ。日本(やまと)のチョンマゲ達のためにしかならない。
あだぬ世のなかに
永らえておれば
朝夕血の涙
袖どしぼる
意:こんなつらい世の中に生きていいるよ、朝も夕も、血のような涙で袖をぬらすばかりだ。
宇宿がちまるや
石抱きゃ成長(ふで)る
代官、キビ見廻りや
島抱きゃ育(すだ)つ
意:宇宿のガジュマルは石を抱いて成長し、代官やキビ廻りの役人は、島をまるごと抱いて、肥えふとっている。
雨(あみ)ふれば溜まる。
野原(はる)の窪溜まり
降らすしゅて溜まる
代官屋敷
意:雨が降れば、野原の窪地に水が溜まる。島民は収穫がないときでも、代官屋敷には金が溜まる。
思て自由にならぬ
籠の鳥ごころ
何時(いち)し籠あきて
吾(わ)自由なすが
意:思い焦がれても、自由になれない。籠の中の鳥のような気持ちだ。いつ籠がひらいて、私は自由になれるだろう
物語のなかでは、この歌が歌われている状況は、騒動の中、
「普段ならおおっぴらに歌えない歌を、誰はばかることもなく、大声で歌う。・・・」
情景を描いていた。
ここで気づいたことが出てきたのです。
この教室に入ったころ、ある人から「島唄は言葉を分かりずらく歌う」と聞いたことを。
先生も仰っていたことですが、戦後先生が小さい頃、伝説の人「山中音女」の島唄をきいたことがあり、聞いても言葉がわかりづらく聞き取れなかったと。
これ、今思えば、島役人などに何を歌っているか悟られないように歌う様になったのか?
ただ、250年の長きにわたる圧政も乗り越えられたのは島唄があったからでしょう。
そんな歴史で育まれた島唄、先生が言葉一つの抑揚にもこだわる理由にそれを知ってもらいたいからでしょう。
「ひびき」の持つ癒しの力を深く認識しつつあるこの頃です。